神戸・連続児童殺傷事件「報道再検証」
~「心の闇」から抜け出すことはできるのか?

牧野 智和 プロフィール

もっと違うアプローチはできないのか

だとすればどのようなスタンスがありえるでしょうか。事件が発生した地元の『神戸新聞』の記事に、その手がかりの一つがあるのではないかと考えます。

『神戸新聞』でも全国紙と同様、その動機についての報道は、学校背景論が徐々に後退して「心の闇」の解明へと向かっていくのですが、全国紙ではあまりとりあげられない、別種の報道も一方で繰り返されていました。

それは地元で暮らす人々についての報道です。事件発生から加害少年の逮捕後まもなくまでは、不安と恐怖に揺れる地元の様子が報じられていたのですが、7月中旬頃からは、事件に衝撃を受けながらも、キャンプや映画会、ハイキングなどを企画し、新たなつながりを育んでいこうとする人々の取り組みや発言が取り上げられるようになっていました。

色々な事件が紙面を奪い合う全国紙ではこうした記事はほぼみられないのですが、地元に密着した地方紙であるからこそ、こうした取り組みを日々紹介することが可能だったのだと思います。

もちろん、こうした前向きな動向ばかりがあるわけではなく、それぞれの取り組みがすべて、すぐさま功を奏したわけではないと思います。しかし、ナイーブな議論であることを承知であえて言うならば、私たちの社会がこの事件に、あるいは衝撃的な事件一般や動機の不可解さに対して、それ自体は「解決」したと思えなくとも、それはそれとして人々は前を向くことができると知る、考えることも、事件に対する一つの向き合い方としてありえるのではないでしょうか。

私たちはほとんどの場合、事件を遠くから眺めることしかできません。多くの場合、事件のことは数日もしないうちに忘れてしまいます。それなのに、性急に事件の背景や動機をあれこれ解釈しようとし、残虐さに慣習的に立ちすくみ、とりあえず「心の闇」という言葉でお茶を濁してしまいます(しかしそれもすぐに忘れてしまいます)。

そのように事件を画面越しに「消費」するだけの私たちにとって、事件の背景や動機は確かに第一の関心事でしょう。しかし、そのような消費者の目線で動機探しに夢中になると、ここまでみてきたように出口がありません。というより、そもそも事件の残虐性にかかわらず、なぜ人を殺さねばならなかったのかという構築原因の詮索自体に無理があると思いませんか。

「分かる分かる」「それなら殺しちゃうよね」とならないからこそ殺人は逆説的にニュースになるわけですが、どう報道を重ねても、殺人の理由が理解できたというところにたどり着くことは倫理上できないはずです。

これまでの事件報道の多くは、構築原因という「ブラックボックス」をそれなりに扱うのみでスルーしてきたわけですが、神戸での事件ではそれを開け放ってしまった結果、そこに囚われてしまい「心の闇」をぶつけるしかなくなったのではないでしょうか。

背景や動機を考えることが不要だとはいいません。しかし、それが行き止まりにしかたどり着かないならば、それ以外の道を探ってみることも必要ではないでしょうか。事件の動機が分からない、考え出すとどうしようもない。

それでも、どうやって人々は再び歩き出すのだろうか、と考えてみることはできないでしょうか。私たちの社会が「心の闇」から抜け出せるとすれば、それは「心の闇」に向き合い、徹底的に動機を解き明かさねばならないという考えから抜け出し、より多様な観点から出来事に向き合うことができるようになったときなのではないでしょうか。

とはいえ、背景や動機を考えるのは当然じゃないか、と思われるかもしれません。しかし、その「当然」は考え直す余地が大いにあるものです。次回は、広い視野からそのことを考えてみたいと思います

牧野智和(まきの・ともかず)
大妻女子大学専任講師。1980年東京都生まれ。2009年早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得退学 博士(教育学)。著書『自己啓発の時代――「自己」の文化社会学的探究』(勁草書房)、『日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ』(同)。