神戸・連続児童殺傷事件「報道再検証」
~「心の闇」から抜け出すことはできるのか?

牧野 智和 プロフィール

では、報道はどこに向かって歩んでいくのでしょうか。紙面から考えるならば、それは「分からないことに悩み苦しむこと」「考える努力をやめることなく続けること」になるでしょうか。良心的ともいえますが、苦しい道でもあります。「心の闇」を簡単に解き明かせるとは思わず、その闇をただひたすらにみつめようという道です。

こうした良心的といえるスタンスの一方で、先に示したような「心の闇」が垣間見えるとされる、少年の特異な供述・記述が報じられ続けてもいました。

「少年ひとりの特異性に帰す」ことはすべきでないと述べつつ、特異性を語っているような記事が日々掲載されるという矛盾がここにはあります。このような報道における矛盾・混乱が、今日まで続く、私たちの少年非行への不安を掻き立てたとは考えられないでしょうか。

「少年=異常な存在」のスタンスには救いがない

7月25日、少年は家庭裁判所に一括送致となります。各紙はこのときまで、事件の動機や背景はなお不明と報じ続けました。

25日午後には、神戸地検が行った記者会見のなかで、一連の犯行に至った動機が「祖母の病死をきっかけに『死』に強い関心を抱き、人を殺してみたいという欲望を持つようになった」と、公式に初めて言及されたのですが、各紙では翌日、祖母の死から殺人までには飛躍があるとしてこの公式見解に疑問符をつけました。

またしても、起動原因が構築原因の前に破綻させられ、事件は「心の闇」に突き返されてしまったわけです。そしてこの後、家裁送致を受けて各紙は報道をまとめにかかるのですが、最後までこのような、分からなさに留まり続けるスタンスは保持されました。

しかし、このような困難な道しか、どうにも解決ができないような道しかこの事件への迫り方はなかったのでしょうか。それを探るべく、私はまず雑誌における神戸事件関連記事を渉猟したのですが、新聞よりも道は険しいように思いました。

新聞はジャーナリズムの良心を体現すべしとして、極端で過激な見解を示すことは少ないように思うのですが、雑誌では加害少年を「冷血鬼」「鬼畜」「悪魔」などとののしり、「もうゲームは終わりだ!」「『酒鬼薔薇聖斗』よ!鑑識はここまで解明している」といった挑発を繰り返していました。

ちなみに、1997年3月から7月までの間に最も神戸事件関連の記事を多く掲載したのは『週刊文春』が38件と飛び抜けており、次いで『週刊女性』が23件、そして『週刊ポスト』22件、『女性セブン』19件、『週刊宝石』18件、『週刊読売』『週刊現代』がそれぞれ17件と続いています。

さて、このように少年を異常な存在として切り分けるスタンスは、単純明快ではあります。しかしこのようなスタンスには何も救いがありません。

神戸での事件に限らず、事件を起こした人物をただ糾弾し、私たちとは違う存在なのだ、敵なのだと決めつけるようなスタンスは、いたずらに不信と憎悪の連鎖を発生させ、犯罪不安を高めるだけでしょう(前回記事で示したような犯罪不安の高止まりは、そのようなスタンスが広まった結果を示しているのかもしれませんが)。