神戸・連続児童殺傷事件「報道再検証」
~「心の闇」から抜け出すことはできるのか?

牧野 智和 プロフィール

しかし、こうした解釈は次のように考えを進めるとき、どうしても立ち止まってしまうことになります。

「少年の心象風景は、『透明な存在のボク』が『義務教育への復讐』を誓う声明文と大きく重なる。しかし、なぜ、他人の痛みを考えない残酷な殺人に結びつくのか、その答えは闇の中だ」(『朝日新聞』1997.7.2「14歳『心の闇』下 緊急報告 児童殺害」)

先に示した記事と同様に、事件の残虐性を説明しようした途端、いくら学校でストレスがあったからといって、体罰を受けたからといって、この残虐性は説明できないと立ち止まってしまうのです。その落としどころとして、「心の闇」に問題が投げ込まれることになります。

このことは、社会学者の鈴木智之さんが『「心の闇」と動機の語彙』(青弓社、2013)で述べる「起動原因」と「構築原因」という区分から理解することができます。起動原因とは行為のきっかけとなる原因で、構築原因とはなぜ他でもないその行為がなされたのかを示す原因です。

事件報道にこれらを当てはめて解釈すると、事件の背景としての起動原因はいくつも並べることができるのですが、なぜこのような残虐な行為をしなければならないのかという構築原因を考えようとすると背景論は破綻してしまう、ということです。そして「心の闇」という言葉でその破綻を何とか繕う、という報道がこの時期に積み重ねられていきました。

起動原因が示されては破綻し、そのたびに「心の闇」という言葉は肥大していきます。しかし、原因を探ろうとする欲望は、加害少年逮捕までの大推理ゲームのなかで大いに喚起されてしまったため、それを押しとどめることはもはやできません。

多くの犯人像推理が埒外とした「少年」が逮捕されたことも、この欲望を喚起するものだったと考えられます。ともあれ、このような起動原因論の破綻が繰り返されるなかで、それまでの少年事件における有力な解釈枠組であった学校背景論・家庭背景論は「心の闇」に取って代わられることになります。

「心の闇」は解き明かされてはいけない?

7月中旬以降、加害少年の残したノートについての情報が多く報じられるようになります。「殺人が楽しくてやめられなかった」「儀式だった」「魂を抜こうとした」「人間の壊れやすさを確かめる実験」「バモイドオキ神」「聖なる儀式・アングリ」といった表現を取り上げては、「心の闇」が垣間見える記述だとしていったのです。

7月中旬までしばしば語られた学校原因論は、この頃以降、「心の闇」を発生させたかもしれない一要因に"格下げ"されることになります。学校での加害少年の姿、家庭、友人関係、ホラー映画愛好、動物虐待という「前兆行動」などの要因が、これこそが主因だという押し込みのないまま(押し込もうとすると、構築原因に突き当たって破綻してしまうため)、ただコラージュ的にちりばめられていきます。

整理すると、7月中旬頃には学校原因論が頓挫し、以降は「心の闇」のありかを考えられるかぎり挙げていくというスタンスで各紙の足並みが揃うことになるのですが、このような足並みはいったいどこに辿り着くのでしょうか。端的にいえば、どこにも辿り着くことはありません。これは加害少年の逮捕から一貫しているのですが、7月2日の朝日新聞社説では次のようにありました。

「いま、大切なことは、事件の真実究明にあって少年ひとりの特異性に帰すことではない。おなじように、一般的な社会要因に原因のすべてを求めることでもない。短絡的な分析で、短絡的な結論を導き出してはならない。(中略)しばらくは、分からないことに悩み苦しむほうがいい」(『朝日新聞』1997.7.2「社説 短絡的な結論ではなく」)

以後の社説でも、事件には未だ不可解な部分が残る、動機や背景はよくわからないとしながらも、この事件の本質や背景に迫り、考える努力をやめるわけにはいかないと語られ続けています。

ただこのとき、各紙がとろうとした道は困難な道であったようにみえます。つまり先の社説にあったように「少年ひとりの特異性に帰す」ことが禁じ手とされる一方で、「一般的な社会要因に原因のすべてを求める」ことも禁じ手とされるためです。