『あさが来た』広岡浅子、本当にこんなスゴい実業家だったの?

週刊現代 プロフィール

本物はもっと剛情だった

また、明治9(1876)年、27歳で浅子は一人娘の亀子を出産。ところがそれからほどなく、浅子は義弟の加島屋9代目・正秋(ドラマの榮三郎)とともに東京での商談に出かけていってしまう。この時には、信五郎が幼い亀子と共に留守を預かっていたという書状が残っている。

〈女史は有名なる剛情の人であった。一たび言い出した以上は誰がなんと言っても貫かないでは止まなんだ。この剛情は時に癇癪となって破裂し、時に幼児の駄々を捏ねるが如く傍人を困らせた〉(前出・『婦女新聞』広岡浅子訃報より)というから、信五郎は癇癪を破裂させる浅子をなだめ、時には逃げ回っていたのかもしれない。

ドラマの中では円満な家庭を築く二人だが、史実では、信五郎は浅子が出水三井家から連れてきた腰元のむめを側室とし、4人の子供をもうけた。そのむめも、難産に懲りた浅子が進んで信五郎の側室に推薦したといわれており、どうやら広岡家の実権は本当に浅子に握られていたようだ。

では、信五郎はただのお飾りだったのかというと、必ずしもそうでもないらしい。

明治22(1889)年、信五郎は、尼崎紡績(のちのユニチカ)の初代社長に就任する。

「江戸時代の尼崎は綿花の産地でした。ですが、文明開化により海外の綿花が流入し、手工業では立ち行かなくなっていた。そこで紡績工場を設立しようと考えたのですが尼崎の人間だけでは資金力が不足していたため、大阪財界の協力を取り付けようということになったのです。その発起人に連なったのが、広岡信五郎氏と彼の謡仲間でした」(尼崎市立地域研究史料館・辻川敦館長)

また、信五郎は同じ謡仲間と日本綿花(現在の総合商社・双日)の発起人にも名を連ねた。

「広岡信五郎氏は、年を重ねるにつれ、大阪財界の大物になっていきます。日本綿花の設立発起人は、銀行家、官僚など多士済々ですが、この人脈は信五郎氏が築き上げたもの。温和な調整役だった彼は加島屋の発展に大きく寄与し、浅子さんと共に家業発展に尽力しました。いわば広岡夫妻は、現在の共稼ぎ夫婦の元祖だったのではないでしょうか」(双日広報部・小林正幸氏)

浅子は自著などでぶつぶつと不満を漏らしているが、実際の夫婦仲は非常によかったともいわれている。実際、浅子は、明治37(1904)年に信五郎が死去すると、一切の事業から手を引くのである。彼女にとって事業は信五郎とともに守ってきた「家のなりわい」だったのだろう。

信五郎の理解を得て加島屋の身代を守ってきた浅子が晩年に打ち込んだのが、女子教育、そして日本女子大学の設立だった。ドラマでは「成澤泉」として登場する、日本女子大学創設者・成瀬仁蔵の著作を読み、浅子は私財を擲って成瀬の理想実現を助けた。