「聖地」と「世界遺産」が好きすぎるニッポン人
~物語化する観光がはらむ“アブない一面”

岡本 亮輔 プロフィール
富良野の夏にはカラフルな花の絨毯が見られる〔PHOTO〕gettyimages

古いものはすべて遺産になってしまう?

逆に言えば、物語さえあれば、なんの変哲もないものや場所も見るに値する対象となり、観光地が作り出される。

たとえば、北海道に富良野という地域がある。夏には、道外からの観光客が大量に訪れる人気観光地である。もちろん、観光用のラベンダー農場などがあるし、風景そのものも雄大だ。だが冷静に考えれば、ちょっと規模の大きな農村である。果たして、観光客は農村の風景を見たいのだろうか。

富良野の農村風景を観光地として成立させているのは、テレビドラマ『北の国から』が語った物語ではないだろうか。

同作は、まったくのフィクションであるが、1981~82年のレギュラー放送の後、20年以上に渡ってスペシャルドラマが定期的に制作された。富良野の麓郷地区を舞台にして濃厚な人間ドラマが展開された。富良野を訪れた人は、だだっ広い風景の中に純と蛍の幻影を見てしまうからこそ、農村風景の中をレンタカーで走り抜けてゆく。

筆者は、物語に支えられた現代の観光が皮相的だと批判したいわけではない。

ここで言う物語は「意味」と言い換えることができる。「無意味なことには耐えられない」という人間のわりと本質的な性向が観光を通じて表れているように思われる。自分が暮らす地域や自分たちの伝統に物語を与えることで、極端に言えば、地域に対するプライドや他ならぬその場所で暮らす意味が獲得できるのだ。

近年、ユネスコの世界遺産の登録数が増加し、このまま行けば国内に限って見ても、世界遺産のない都道府県などなくなる勢いだ。

また、様々な「遺産ブランド」が作られている。ユネスコに限ってみても、民俗芸能や祭礼などを登録する「無形文化遺産」、人類史において重要な役割を果たした古文書や記録物を登録する「記憶遺産」の事業が活発になっている。

このまま行けば、建物から食事、祭礼から後継者のいない舞踊まで、何か古いものはすべて遺産になってしまいそうだ。

こうした傾向を支えているのも、突き詰めれば、自分たちの地域や伝統に何らかの意味を与えたいという衝動ではないだろうか。

もちろん、ユネスコは観光振興や地域で暮らす人々のプライドのために世界遺産を運営しているわけではない。その根本理念は、貴重な対象の保護であり、観光客誘致とは対極にある。実際、日本ほど世界遺産をブランド視している国も、それほど多くはない。

自分たちが価値あるものと信じているのなら、ユネスコなどという一般人には得体のしれない組織に認めてもらう必要はないはずだ。それにもかかわらず、なぜ、長い時間と莫大な労力をかけて、富士山の価値を国連に説明しなければならないのか。

その根本には、他者に認めて貰うことで、自分たちの地域や伝統に意味を見出せる。そして、その価値を説明する過程で、それまで当たり前だと思っていたものの背後にある物語を発見できるからではないだろうか。