日本人が知っておきたいデヴィッド・ボウイのすべて〜歌舞伎との深い関係から少女マンガへの影響まで

川崎 大助 プロフィール

「見得を切る」「タメを作る」

71年、日本人としては初めてのファッション・ショーをロンドンでおこなった寛斎さんは、そのショーのプロデューサーでもあった高橋靖子さんの引き合わせで、ボウイと初めて対面する。そして、このときのショーで発表されていた服そのものが、「ジギー」のステージ衣装として採用されることになった。

特筆すべきは、「ボウイからの依頼で寛斎さんがデザインした」わけではなく、最初はその逆だった、ということだ。「寛斎さんのクリエイションを気に入った」ボウイが、その衣装をもとに「よりジギー化していった」という順序が正しい。寛斎さん作の「因幡の白兎」というジャンプ・スーツをボウイは使用した。

また、ジギー・ツアーに続く「アラジン・セイン」ツアーのためには、「出火吐暴威」と名付けられたニットのオール・イン・ワン・スーツと、新たに「トーキョーポップ」というジャンプスーツが寛斎さんの手によって制作された。

「トーキョーポップ」と「出火吐暴威」はセットでよく用いられ、袴のように横に広がる「トーキョーポップ」を瞬時に脱がせて、なかからニット姿のボウイが出て来る、という仕掛けも生まれた。これは言うまでもなく、歌舞伎の「引抜き」であり、「早変わり」のアイデアの応用だ。

今日、レディ・ガガよろしく、ステージ上でつぎからつぎに衣装を「早変わり」するアーティストは世に多いが、その元祖は(男性なのに)このときのボウイだった。そして彼の「トーキョーポップ」は、別名「KABUKI」とも呼ばれていた。

日本の伝統演劇、歌舞伎からの影響は、ボウイにとってじつに多面的なものだったようだ。まずは、化粧によって「日常と地続きの自分」を眠らせて、「別人格になる」というアイデア、これこそまさに歌舞伎の影響だろう。

さらには、ステージ上の「動き」によって、つまり視覚的要素によって、ストーリーやドラマを観客の胸中に生ぜしめるところ、これも歌舞伎的だ。「ジギー」期だけではなく、そののちの、薄化粧(?)となったあとのボウイであったとしても、確認できるステージ上での動きは、歌舞伎的なものがとても多い。

「見得を切る」「タメを作る」といった、静止および微細な動作の部分にこそ「一連の動きの山場を持ってくる」という、ボウイのステージングにおける独特なありかたがそれだ。84年のシングル「ブルー・ジーン」のMVでは、彼は(歌舞伎の十八番の)蜘蛛の巣投げまでやってしまう。