陛下の前で涙を流した彼らは何者か
~放置され続けたフィリピン「無国籍邦人」という問題

北島 純 プロフィール

立ちはだかった壁

1972年、マルコス大統領が戒厳令を布告し、フィリピン経済再建のために親日政策を採用するようになってから、フィリピン残留日本人に光が射すようになった。それまで息を潜めるようにしていた日系人がフィリピン各地で日系人会を作り、日本人の子孫としての声を挙げ始めた。

その声は日本にも達し、フィリピン日系人の日本国籍回復を求める機運が高まった。1985年には外務省が国際協力事業団との合同調査に乗り出し、1988年の厚生省(当時)合同調査とあわせて、約2000人の日系人の存在が確認された。

さらに、1995年以降、外務省はフィリピン日系人連合会およびフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)に調査を委託し、合計で3545人の日系2世のデータが把握されるに至った。

こうして蓄積されたデータを基に、「無国籍」状態のフィリピン残留日本人に、日本の国籍が回復されるはずであった。というのも、敗戦当時の日本の国籍法(1899年施行)は、父系優先血統主義を採用しており、父親が日本国民であれば、その子は無条件で日本国籍を取得できた。したがって、残留2世が本来の日本国籍を回復するのは、いわば理の当然といえたからだ。

ところが、そのようなフィリピン残留日本人の前に「立ちふさがった」のが、裁判所の手続の壁であった。

国籍回復の具体的な手段として新たに戸籍を作る(就籍)には、家庭裁判所の審判が必要であるが、その前提として、申し立てた者が日本国籍を保有していることを明らかにしなければならない。

しかし、フィリピン残留日本人の多くにとって、それは酷な要求だった。敗戦後の混乱の中で生きる為にあえて日本人であることの証拠を捨て去ったのである。今さら「父母の婚姻証明書」や「本人の出生証明書」といった、身元を証明する物証を提出するのは難しい。

にもかかわらず、フィリピン残留日本人だけを「特別扱い」する訳にはいかないという理由で、一般的な就籍の要件を充たすことが求められたのだ。