SMAP独立騒動から20日…そしてすべては「なかったこと」になる

週刊現代 プロフィール

政界では、中曽根康弘元総理と親交があり、橋本龍太郎元総理とも、住んでいたマンションが同じだという誼で懇意にしていたという。

これほどの「女帝」に対して反乱を企てるにしては、マネジャーの飯島氏、これに同調した中居ら4人の準備と覚悟は、いかにも不十分だったと言わざるを得ない。

「飯島さんはSMAPを率いての独立を目指していたようですが、実際にはグループとしての版権も興行権も商標権も、何ひとつ手にしていなかった。たとえ独立したとしても、SMAPの権利はすべてジャニーズ本体が握ったままであり、これでは『SMAP』という名称すら使えない。

そのため、独立後の移籍先の交渉も上手くいっていなかったようです。他の芸能プロからすれば、ジャニーズ事務所にケンカを売ってまで彼らを受け入れるメリットがありませんから」(大手芸能プロ関係者)

女帝は、子飼いの一スタッフに噛みつかれたことを許さず、裏切り者として、彼女が手掛けたグループごと断罪した。女帝の逆鱗に触れることを怖れ、キムタクは他の4人のメンバーを裏切り、いわば「ユダ」となることで身の安全を図った。当てが外れた中居たちには、反乱しながら、最後は女帝の靴を舐めて許しを請うた愚か者という烙印だけが残った—。

こんな茶番につき合わされた国民の多くが、SMAPへの興味を失う日も近いだろう。

考えが甘すぎた

「メリーさんにとってタレントは『息子同然』の存在で、それはSMAPも同様です。でも飯島さんは傍から見れば功労者ですが、メリーさんから見れば、あくまでただの一従業員。彼女になびいた4人も含め、これ以上出過ぎたマネは許せなかった。メリーさんはそういう人です」(事務所関係者)

ジャニーズの女帝、メリー喜多川氏は、高野山米国別院の僧侶・喜多川諦道氏の長女として1926年にアメリカ・ロサンゼルスで誕生した。

'33年に家族で日本に渡る。第二次大戦という激動の時代を乗り切り、一説によると、やがて地元の歌劇団に顔を出すようになり、戦後は劇団が駐留軍の慰問公演を行う際に、通訳を務めたりしていたという。

その後、弟のジャニー氏と共に再渡米してロサンゼルス・シティー・カレッジ(ロサンゼルス市立短期大学)で学んだ後、再び日本に帰り、弟が'62年に芸能事務所「ジャニーズ事務所」を開設した際、経営に参画するようになった。