絶好調!大河ドラマ『真田丸』
真田・徳川家の子孫が明かす「謎と真実」

週刊現代 プロフィール

真田 でもそれって、勝手に躓いたんですよね? 沼田の支城だった名胡桃城に攻め寄せてきたのは北条方なんですから。

徳川 それがますます不愉快なんです(笑)。机の角に足をぶつけた時って、机に八つ当たりしますよね。こっちが悪いんですけど、自分に非があるから、よけい怒っちゃう。真田家って、徳川にとって狭い通路に置いてある机みたいなものなんです。なんでこんなところにあるんだ! って。

山本 多少解説を加えましょう。

北条の家臣が名胡桃城に攻め寄せる前、真田昌幸は、天下をほぼ手中にした豊臣秀吉の裁定により、沼田城を北条に渡しますが、名胡桃城は真田領であると安堵してもらっていた。

秀吉はその頃、全国に「惣無事令」を発して戦国大名同士が私闘してはならん、と通達していたんですね。地方の小大名の小城といえど、ワシが安堵した地を攻めるとはけしからん、と、いわば秀吉は北条に対して「集団的自衛権」を発動した。

名胡桃城事件で秀吉は北条討伐を決意するわけですから、これは本当に大きな事件でした。真田という家が、小さいながら戦国の歴史に大きな役割を果たした、その一例です。

真田 昌幸のほうも、こんなことをご子孫の前で言うのは何ですが、家康とは生理的に合わなかったんじゃないかと思うんです。いったん同盟してみたら、自分たちが先祖代々必死に守ってきた領地を、北条—徳川間で勝手に別の土地と交換されてしまったりして「これは信用がおけない」と思ったのでは。

徳川 だから後年、関ヶ原の戦が勃発した時に昌幸は信繁を連れて西軍に荷担したんでしょうか。

でも真田さんのご先祖である信幸は、徳川家康の家臣団随一の猛将・本多忠勝の娘を正室にしています。それで信幸は東軍に参じた。有名な真田家の東西分かれですね。

山本先生にお聞きしたいんですが、関ヶ原の戦で親兄弟を東西に割って、いわば両天秤にかけることは戦国武将としては許されたんでしょうか?

山本 いや、両天秤ではなく、信繁の妻も大谷吉継(石田三成の盟友だった西軍の将)の娘ですから、それぞれ独立した武将としての苦渋の選択だったと思います。

関ヶ原は長男の信幸が味方した東軍が勝ち、信幸は舅の本多忠勝と共に家康に必死に命乞いをして、昌幸と信繁は助命されました。処刑されてもおかしくない状況でしたが、家康は父に背いて信幸が味方したことを評価していたから許したんでしょう。