大阿闍梨が明かす少年時代「中学校に入ってからは、パチンコ屋さん通いがやめられませんでした。なぜなら…」

島地勝彦×塩沼亮潤 【第3回】
島地 勝彦 プロフィール

シマジ やっぱり千日回峰行をやられた大阿闍梨は舌も敏感なんですね。

塩沼 ありがとうございます。それから中学のころはパチンコ屋さんによく通っていました。パチンコ屋さんに行くと、まず小さな箱を持って床に落ちているパチンコ玉を拾います。子供のやることですから誰も怒りません。拾った玉が箱の底に一列に集まると、それでパチンコを打ちはじめるわけです。

当時「飛行機」という台がありまして、一気に打つと玉がすぐなくなってしまいますが、コツがあるんですね。最初に角のいちばん目のところに当てて、それから間をあけて打つと、開いたところにバンバン入ります。それで必ず2箱か3箱ぐらいいっぱいにして、米や味噌、醤油、砂糖などに換えて家に持って帰っていました。

シマジ そんなことをしてパチンコ屋の店員から怒られなかったんですか?

塩沼 店員さんもわたしが拾った玉で打っていたことは百も承知だったと思います。でも交換する景品が米や味噌や醤油でしたから、この子の家はよっぽど生活に困っているんだろうと思ったようで、ときどき「開放台」という開きのいい台を教えてくれることもありました。

開放台で打つと大きな箱がいっぱいになることもありました。常連のおじさんたちとも仲良くなって、玉を分けてくれることもよくありましたね。

立木 そうか、だから大阿闍梨さまはいまでも「パチンコ屋さん」といい、「店員さん」といっているんですね。シマジが「パチンコ屋」「店員」と呼び捨てするのとはえらいちがいだね。

塩沼 パチンコ屋さんには本当に助けてもらいました。高校に入ってからもパチンコ屋さん通いは続きました。悪いことだという意識はまったくありませんでしたから、制服のままでお店に入って打っていました。

シマジ 一家の生活がかかっていたんですものね。

塩沼 でも、ある日、学校の先生にみつかってしまったんですよ。その先生もパチンコが大好きだったらしく、たまたま同じパチンコ屋さんにきていたんですね。2、3度わたしが玉を拾って打って景品を持って帰るのをみていたようです。

先生としてはわたしが現金に換えたところを捕まえるつもりだったようですが、わたしが持って帰るのはいつも米や味噌や醤油でしたから、「どういうわけだろう?」と不審にはおもっていたようです。

ところがあるとき、見かねた先生から「次にやったら停学だぞ」と警告されました。そうはいっても、わたしも生活がかかっていますので、おいそれとやめるわけにはいきません。

シマジ まあ、先生も立場上そういわざるを得ないですしね。