鶴翼の陣はまぼろしだった!? 戦国軍事史の意外な「新事実」

乃至 政彦 プロフィール

しかもそこには厄介な天魔どもが棲み憑いていた。

扉を開いたばかりのわたしはかれらに手首をギュッとつかまれ、嘲笑いと共に引き入れられそうになった。

一匹目の天魔は「鶴翼の陣というのはこういう形状だった」と図面を示した。出典は何かを問うと、しばらくわたしを睨めつけてから、すぅっと消えた。

次の天魔は「戦国には八陣があり、鶴翼や魚鱗もそのひとつだったのだ」と語るので、中国の兵書に伝わる正方形の八陣図を掲げると「違う」といって陰に隠れた。

三匹目は「徳川時代には定型の陣形図があるのだ」と言うので実用例を求めるとこれも「自分で探せ」と言い捨てて立ち去った。

暗闇にはまだ天魔が隠れているかもしれなかったが、わたしは灯りをもって空白地のすみずみまで照らしてみた。もう天魔はあらわれなかった。呼ばわっても、返事がなかった。ここで疑いは確信に変じた。すべてまぼろしだったのである。

「鶴翼」「魚鱗」の真実

詳細は拙著をお読みいただきたいが、中世の文献には「鶴翼」とか「魚鱗」等と呼ばれる陣形の名が認められていた。

だが陣形の表現に何度も触れるうち、どれも慣用句の表現に留まっているらしいことが見えてきた。「鶴翼の布陣に移れ」と号令があったとき、そこにマニュアルや定型がないのである。

たとえば鶴翼といえば、多くが「相手を包み込めるぐらい横拡がりになって、徐々に追い込め」という程度の掛け声であり、魚鱗も「密集して、一点突破をめざすぞ」とするぐらいの合図でしかなかった。各将士の個人的判断をうながすための言葉だったのである。

戦国時代の陣形に言及する文献は、その由緒を「唐の軍法」「秘伝の兵法」に基づくなどと重々しく記しているが、「唐の軍法」(当時は稀書だったが、いまではネットで読める)とやらに直接あたってみると、まったく別の陣形が書かれており、「秘伝の兵法」に基づく陣形についても出処を探ってみると、神話時代から正体不明とされる作り話が根拠だったりしたのである。

何のことはない、どれも脚色に過ぎなかったわけだ。

もっともこの単純な答えをみつけるまでが大変だった。中近世の軍学を一から学び、日本・中国・朝鮮の兵書(しかも故意に難しく書いてある)を何年か読み込んで、ようやく天魔の仕業である疑いが浮かび上がったのである。

この天魔は恐ろしくも三国志の「五丈原の戦い」の時代から1782年ものあいだ、生き続けていた。

中国の『三國志』巻之三十五に「諸葛亮が黄帝時代の陣形を再現した」とする記録があって、そこにその陣形が具体的に記されていないことから、後世の軍学者たちが「諸葛亮の陣形はこうだ」と議論しあい、諸説が日本に渡ることで空想上の陣形が使われはじめていったのである。

しかしこうしたファンタジーを真に受けて、本当に陣形を再現しようとする人物が戦国時代にあらわれる。だれあろう、あの武田信玄と山本勘介だった。

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