日本のお正月を彩る「松飾り」のその後は?
江戸時代から受け継がれる「幸田家のくらし」

青木 奈緒 プロフィール

思い立って調べてみると、この一件はどうやら江戸時代に何度も起きた火事と関係があるらしい。江戸の町の大半が焼失したと言われる明暦の大火(振袖火事)から5年後の寛文二(1662)年、幕府が松飾りは7日まで、どんど焼きも禁ずる旨の町触れを出したのだそうだ。

冬から春先は気候の上でも空気が乾燥し、いったん出火すれば、松は油分を多く含む木ゆえ、焚きつけとなって火災を広める危険がある。今のように耐火建築も消火技術も進歩していなかったころ、いかに火事がおそれられていたか。松の内を半分に縮めてお正月気分を返上してでも、火事を防ぎたい思いがあったのだろう。

母方の幸田の家はかつて江戸城内に仕えており、そのころは決まりを違えれば一大事だったに違いない。7日の朝、近所隣りの松がとり払われているのに、一軒だけが残って「いつまでもおめでたい」と言われることは、家庭をまもる女たちにとっては恥だったのではないだろうか。祖母の言っていた言葉の響きに、江戸の名残りが感じられる。

青々とした松葉は、松の内が過ぎてもみずみずしさを保っている。たった今まで歳神様の依り代としての意味を持っていたものを、おろしたからといって、すぐに片づけてしまうのは名残惜しいような、粗末にしているような気さえする。どんど焼きで焚きあげれば、松納めのかたちとして気持の上でも納まりがつくのだろうが、江戸の昔から禁止されていたのであれば、私の子ども時代にその記憶がないのももっともなこと。

鳥総松を挿す

おろした松をどうしたものか。

遠い日に母も同じ思いを持ったらしく、まだ小さかった私に教えてくれたことがあった。

若松の先端を短く切りとって、門松や松飾りがあった場所に挿しておくことを鳥総松(とぶさまつ)と呼ぶ。鳥総とは木の梢を意味し、本来、樵(きこり)が木を伐り出したあと、切り株の上に梢を据えて山の神様に感謝を捧げたことに由来するのだという。私が子どものころ、鳥総松を挿す家はすでに少なくなっていたが、少し郊外の住宅街などを歩いていると、ところどころで見かけることがあった。

さっそく見よう見まねでやってみると、足元の松の緑は意外にいつまでもあざやかな色を保ち、家の出入りのたびに視線を引きつけ楽しませてくれる。年が明けて新春を迎えたとはいえ、寒さはきびしく、庭には色が乏しい。かわいらしい松の梢は、やがて梅が盛りを迎え、水仙が土の中から蕾を押しあげ、桃がほころぶようになるまでの春の架け橋といったところだろうか。