「戦争、貧困がなければ、僕は物書きにはならなかった」
〜作家・開高健「幻の講演」を公開(後編)

「成人の日」特別企画
開高 健

パン工場で本を読む

そんなこんながあって、私、学校に来るのがすっかりいやになってしまいまして。それで、4年生5年生の記憶、どんな生活をここへ来てやっていたか、私にないんですね。苦しかった。辛かった。いやだった、という思い出ばかりがあとの思い出を消してしまったんです、お酒に手伝ってもらって。それで、私はこの、卒業式に出なかった。

それから私は旧制の大阪高等学校というのに入って、それからそこは籍だけおいて1年で今度は新制大学になって、また大阪市立大学というのにも入って、だけども以後、中へ入ってから勉強する気がない。

ただ虚栄心があるんですね。お金のある人は学校へ行けるんですけれども俺は頭があるけど学校へ行けないと思うのは悔しいという気持ちもあるし、それから学校へ行っても行かなくても籍を置いときさえすれば、学生であろうがアルバイトであろうが、パン屋の工員であろうが、変わらないであろうというので、勉強なんて片手間にできるよと傲慢不遜な思いもあったしで、入学試験を受けるとパスしちゃうんですが、人間嫌いの癖がついてしまって。それで入学式も卒業式も以後出たことない。ねじくれ曲がってしまったんですね。

それで学校へ行きたくないから自分の家で勉強してるんですけれども、家にいたって食うものがないし。母親がお芋を蒸かしてテーブルの真ん中に置きますと--テーブルって言うと誤解される、食卓。母親がいて、じいさんがいて、妹が二人いて、出戻りのおばがいるんですけども、はっと見ると母親の目がらんらんと光っていて親の目とは思えないんです。安達ヶ原の鬼婆みたいな目をしてる(笑)。このお芋に手を出そうとしてる。

私もそんな目をしているんですね。安達ヶ原の鬼婆の子の目をしてて、親でも取って食いかねまじき目をしてる。妹もそうだし、母親がそれを見てたちまち、泣き出すんです。こんな目をして飯食いたくないと。

飯食いたくないって言ったって自殺ができないんだから食っていくしかないから、右の目で泣きながら左の目で笑ってお芋を食べる(笑)。日本中の都会の家庭にこの風景が当時見られたと私は思うんですけども。ああいう親兄弟の目を見るのを私はこれまた嫌になっちゃったんで、町を歩いていると「パン焼き見習工求む」というとんでもないビラが張ってあるんでそのままそこへ駆け込んで、雇ってくださいと言ったんです。

それで僕はある町のパン工場に入りまして。パンをこねて焼いていたんです。これはありがたかった。まず冬の晩だけどパンの竈のそばにいられるんで暖かい。当時は電灯がつかなかった。電気が昼と夜と配給制になっておりまして。昼は家庭の方へくる。昼は電灯つけるやつは、あんまりいないから家庭にまわす。夜は工場だとかそういうところにまわす。

夜になると家庭は豆ランプかろうそくかそういうもので、懐中電灯なんてしゃれたもんはないんで。パン工場なら本も読める。暖かい。パンは食べ放題に食べられる、これくらい趣味と職業の一致した例はその後なかった。

米軍の配給してくれたお芋だとか、テキサスの牛の餌、トウモロコシの粉、大阪ではナンバ粉と言うんです。南蛮粉というのをもじってナンバ粉、これを日本人はたちまち、そのまま食べないでカステラにするという技術を発見したんです。応用の天才なんです。毎日毎日明けても暮れてもわたしは、コッペパンとナンバ粉のカステラを作っていたんです。これの作り方も聞きたければ教えてあげる(笑)。ただし、大きな釜が要りますけど。電気釜が。

友達が時々訪ねにやってきて、みんな感じやすいいい友達ですから、パン屋の看板のかげから、手招きして私を呼び出しまして「試験やで」なんてこと言って帰っていく。教えにきてくれるんです。試験受けて、結局しかし卒業式に出ない。卒業式に出なかったのは、みんなそうで、卒業式ができなかったんではないかと私は思う。

それでさっき、校長先生がおっしゃったみたいに二十何年経ってから卒業証書をもらう。これをもらったときは、私、実に感動してしまいまして。そうだあのとき俺はねじくれ曲がって人嫌いになって学校行かなくなってパン工場に行っていたけれども、だから卒業式にも行かなかったけれども、思い出してくれたのがいたかという気になりましてね。一晩大酒飲んだんです(笑)。なんかがあると私は酒を飲むんですけれども。一人で飲む酒というのは無限に飲める。