「戦争、貧困がなければ、僕は物書きにはならなかった」
〜作家・開高健「幻の講演」を公開(後編)

「成人の日」特別企画
開高 健

弁当箱の中身がなかった

それから学校に付属の農園というのが平野の方にありまして、ここへ戦争中、戦前も行ったんですけれども、生徒に農作物の知識やら土の労働のことを教えるという目的で、お芋なんかが作られてるんですが、その芋畑へ生徒と一緒に芋掘りに行ったところが、掘った芋を畝のところにかためて、2本ずつ分けていくんですね。

大きいのが1本、小さいのが1本分けていくんですけども、なんとかという先生が素早く5本取って行ったとか行かないとかいって、生徒が嫌がらせをする。先生は栄養失調でへろへろになってる。そんなアホなことするかといって抗議をなさるんですけれども、生意気盛りに乱暴ぞろいときているものですから、先生がよろよろする。それを見ているおとなしい子が、いよいよ感じやすくて絶望する。こういうことが多かったです。

食うものがないもんですから、私の家は--あの頃都会で一家に働き手が無くて、収入源というものがない家庭がたくさんありましたけれども--学校へ持ってくる弁当がない。弁当箱はいくらでもある、皿や小鉢の類もある。だけど入れる米がない。戦争中に無限の食べ物の無限の話の「千夜一夜」をシェヘラザードのまねをしてもしゃべってもいいんですけれども。

楠公炊(なんこうだ)きというのがあって、これは近畿の習慣なんですけれども。楠木正成が千早城に立て籠って兵糧攻めにあって、兵隊が食うや食わんでへとへとになってしまう。御大将もへとへとになる。

そうするとどうするかというとお米を煎りまして、片方にお湯をがんがらがんがらお釜に沸かしておいて、煎った米をバンとほおりこんでお湯の中に入れて素早くふたをするんですね。素早くするっていうのがコツなんですね。もう一つ念を入れるならば、そこにプレス(圧力)をかけるんですね。当時そういうのを売ってまして、それで一合の米が六合くらいに脹れるんです。お米のポップコーンができるんです。

私の母親は蓋をとって驚喜しまして、一合の米が釜一杯になってるっていうので元気づくんです。たまゆら。ひとときだけ。しゃもじを突っ込んでみるといっぺんに底まで行く(笑)。根は一合なんだから。ただ目をごまかしているだけなんだから。お茶漬けをしようものならすごいことになる。ぺたぺたになってしまう(笑)。

これはもう泣くにも泣けない。毎日そんなことをやっていたんですよ。楠公炊きというんです。東京の人で同じ経験をしたのに聞いてみたけれど、そこまでは知らんなぁというのが多かった。しかし、豆滓食うたやろと言うと、おうそれそれということになってきてまた弾んじゃうんですけれども。

それで戦争中はみんながみんな同じように食うものが無くてぺちゃぺちゃだ、弁当箱空っぽ、炒り豆食べる。豆滓食べる、右見ても左見てもそれなので凌げた。

ところが戦後は同じようにあれなんだけれども自由になったもんだから、しっかりしたとこのお父さんとか収入源のある家の子は今度はあべこべにご飯のおかずになんでも詰めて来れる。

それで私は弁当箱の中身がないもんだから、学校へやってきまして、昼飯どきになると素早くするりとみんな見てないだろうと思って逃げ出して、体育館の水飲み場があるんですけれども、水を飲むんです。それでぎゅっとバンドを締めまして。バンドを締めるのは、戦争中から毎日何百回何千回とバンドを締めていた。慣れたもんです。

水腹というのはこたえるんです、冬の日は特にこたえる、冷たくて歯が、ちんちんなる。それで誰も気がついてへんやろと思って校庭をぐるぐるぐると一周して教室へ何気なく戻って、英語かなんか読んでいるんですね。

誰も見てへんやろうと思ったのが浅はかさで、気のついた友達がおりまして。当時私が級長をしていて、その後ろに副級長っていうのがすわってるんですけど、あるときこれが私が水飲みにいっている間に、新聞紙にパンを包んで机の中に入れておいてくれました。

そのパンというのが小麦で作るふつうのパンじゃなくて、家で作ったパン。お芋をいれて、ごまかしてあるんですけども、私はそれも食べられなかった。何が入っているのか分からないんですがあけてみるとパンが入っている。おそらく後ろの席に坐っている梶浦君が入れてくれたのではないかと思って(笑)。

私は恥ずかしさにいたたまれず--今なら平気なんです。今なら諸君が何をくれてもありがとうともらいますけれども。図太く。もらえるときにもらっちゃえと。遠慮はしない、遠慮したらえらいことになると教えられたものですから--それで廊下へ飛び出したんです。そしたら梶浦君も感じやすい少年ですから。両方とも感じやすい〝微少年〟なんですから(笑)。微少年というのは顕微鏡の「微」。かすかという意味ですよ(笑)。

私が廊下を走ると彼が追っかけてきまして、便所の近くまで追っかけてきて、どもりどもり真っ赤になって、俺のうちはとにかくなんとか食うもんがある。それで君の話をしたら、お母さんが作ってくれた。気にしないで食べてくれと。これから出来たときいつも持ってくる。というようなこと言うんですね。

彼はそれで恥ずかしくてたまらないし、極度のはにかみ屋、内気で。それは私も同じ。ガラスのように脆かった(笑)。私をこんな図太いおっさんにしてしまったのは、祖国なんですけれども。

それで人に物をもらうというのは、あげる方もなかなかにこれは難しいもんだ。もらうというのも非常に苦痛である。人に物を差し上げるときはよほど気をつけないといけないと後年になって気がついたんです。だからといって私がけちん坊になったとは思いませんけれどもね。

自分がそのとき傷ついてしまった、その気持ちのことを考えると、同じような感受性を持ったのが、やっぱり今だって何人かはいるだろうし、そういう気の毒な状態にある人に、物を差し上げるのに非常に考えもんだと考え方もするようになったんです。