「戦争、貧困がなければ、僕は物書きにはならなかった」
〜作家・開高健「幻の講演」全文掲載(前編)

「成人の日」特別企画
開高 健

当時の学校生活

私はこの中学校、いま高等学校になりましたが、「天中」と言われた頃の五十期生で、先ほどご紹介がありましたみたいに、その中学校に入学したとき、私の父は学校の先生で。この学校じゃありません。それで名門校に、息子が、長男が入れたということで、えらい感激して。母親も涙ぐみまして(笑)。どこやら走って、鯛のお頭付きを買ってきて食べさせてくれた。赤飯を炊いたりと。

それを私はボタンのような唇で食べてたんですけれども。ボタンというのは牡丹の花のボタンですわ。酒はその頃飲んでませんから、まだ脳みそも新鮮だし、皮が張ってないし、ヒビもいってないし……(笑)。

そこにいらっしゃる藤井先生やら、お亡くなりになった藤原先生に、英語やら数学を教えてもらう。

先ほども校長室で藤井先生にお目にかかってズキンと来るものがあったんですけれども、先生に、教室で斜めに太陽の光が射す春のうららかな午後に英語を教えていただいて、そういう英語がいつまでも生き延びていって、当たり前と言ったら当たり前なんですが、あちこちの国へ行って、私は英語と片言のフランス語で歩いていたんですけれども、言葉に行き詰まると藤井先生の顔を決まって思い出していて、これは藤井先生の英語がまずかったから私が行き詰まるんじゃなくて(笑)。そこはあくまでも誤解しないように気をつけていただきたい。

外国に行って、緊張したり、酒飲んだりしているもんだから行き詰まることが多いんで。苦しくなると神様の顔思い出したくなるように藤井先生の顔を思い出す。あのとき三人称単数なんとかかんとか、have とhas の発音がとか、そんなことが頭の中をちかちか、懐かしくなるんですよ。

授業の1時間目か2時間目に抜け出して食堂へ行ってカレーライスを食べて、もうそのころぼつぼつ食券が始まっていたかと思いますけれど食券を買ってカレーライスを食べて、食券は1日1枚なんですが、おなかが減って減ってしようがないから2枚3枚いっぺんに食べてしまう。ひもじくてしようがない。

ラグビー部はラグビーしてるし、それから、サッカー部はサッカーをやっているし、体操部は体操やってるし、おとなしいホントにおとなしい子は植物班ていうのがあって、裏庭ごそごそ鍬で引っ掻いたりしてる(笑)、そういうボンボン、がさかさ柄が悪いけど根は十八金の優しさを持ってるボンボンとして1年だけここで暮らさせてもらいました。

私の父は学校の先生をしていたけれども食意地がはっていたのか食うものがなくなってきまして、屋台の、鶴橋界隈の屋台のこの、トンカツか串カツ食って腸チフスになった。

腸チフスで死ぬっていうことは今では考えられないんですが、ヤブ医者にかかりまして、(その医者が)風邪引きだと言って(笑)、チフス菌が血管の中に出てきた頃にはもう命取りなんですが、そのときになって「これはちょっとおかしいでんな」という胡乱(うろん)なことになって、衛生病院が桃山病院なんですが、桃山病院に担ぎ込まれて、あえなく討死を遂げたんです。非常にまじめな学校の先生が憐れ極まる末路を遂げたってというのが私の父の場合なんです。