ユーミンにも売れない時代があったんだ【特別対談「荒井由実」を語ろう】

週刊現代 プロフィール

スタジオの隅で泣いていた

村井 やがて大学生になったユーミンはアルファレコードと正式に契約を結び、三田にあった事務所に毎週のように顔を出しては曲を書き溜めていきます。それで彼女のレコードを出そうという気運が盛り上がってきて、最初にかまやつひろしさんがプロデュースした『返事はいらない』というシングルを出したんだけど、これが全然売れなかったんです。

有賀 300枚くらいでしたっけ。今でも〝幻のシングル〟と言われる。

村井 その後、引き続き作曲を続けているうちに「スタジオA」というアルファレコードの専用スタジオが完成したんです。そこで今度はアルバムを作ろうということになったんだけど、当時のユーミンは自分で歌うことに迷いがあったんですよね。

有賀 今考えてみると、ユーミン本人は当時、自分で歌うシンガーソングライターになるよりもむしろ作曲家志望で、そっちのほうに自信があったんだろうと思います。でも、スタッフは本人に歌ってもらったほうがいいと考えていたから、『ひこうき雲』『雨の街を』『紙ヒコーキ』の3曲を歌ってもらったんです。僕が最初にユーミンに会ったのはそのときでしたね。それで歌を聞いてみると、確かにそんなに上手くはない。けれど、拙いながらも声に魅力があったんです。

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村井 実はその前に『ひこうき雲』を歌手で女優の雪村いづみさんに歌ってもらったことがあるんですよ。ただ彼女は最高の歌唱力の持ち主だけに上手すぎる。ユーミンが訥々と歌うほうが心に染みたんです。

有賀 それで、ようやくアルバム『ひこうき雲』の制作が始まるんですが、完成まで1年以上もかかったんですよ。楽器の演奏部分はすぐに録れたんだけど。

村井 バックバンドの「キャラメル・ママ」は凄いメンバーだったからね。細野晴臣(ベース、「はっぴいえんど」「YMO」)を始め、松任谷正隆(キーボード、後にユーミンと結婚)、鈴木茂(ギター、「はっぴいえんど」)に林立夫(ドラム)。当時、考えられる最高のバンドだった。

有賀 ただ、肝心の歌入れは難航しました。いざ録ろうとすると、バックの演奏レベルが高いだけに、ユーミンの歌の拙さが耳についたんです。どうしてなんだろうと考えてみると、彼女の声はずっと細かく震えていたんですね。僕は〝ちりめんビブラート〟と呼んでいたんだけど、これならビブラートをかけないほうが彼女に合っていると考えた。それでユーミンには「とにかくビブラートはかけるな」と指示しました。

村井 毎日、レコーディングしてたんだっけ?

有賀 週に3~4日くらいですかね。当時のユーミンは音程にも問題があった。しかも彼女は喉が弱かったので、痛みが出るのを心配しながら「もう一回、もう一回」と続けていった。

そんな日が続いたあるとき、耐えきれなくなったユーミンが僕に「音程が少しくらい悪くても、雰囲気が良ければそのほうがベターでしょ」と言ってきたことがありました。でも音程こそが生命線だと考えていた僕は、「ラジオのオンエアのように一回限りならそれでもいい。けれど、これはずっと残る作品なんだ」と諭しました。そうしたら彼女は、スタジオの隅にあったピアノの陰で泣き始めてしまったんです。

チェン それまで彼女は音楽のことで他人に注文をつけられたことがなかったから、ショックだったんでしょうね。