「大政翼賛会」はニッポンの政治思想に何を残したのか

近衛文麿のブレーン「佐々弘雄」の知られざる秘話
伊藤 隆

勤倹尚武であった佐々弘雄

淳行氏の少年時代は、弘雄が外務省勤務から大正13年に九州帝国大学教授になり、それが昭和3年の赤化教授追放(東京帝国大学学生時代、新人会に加わり、社会主義思想を受容していた)で失職、その後、評論活動を続けて朝日新聞社に昭和9年入社したという時期であった。

印象に残ったのは「原稿を書いているか、着物の片肌を脱いで藁の的に向って弓を引いているか、正座して和紙を口に咥え、日本刀の青光りする刀身に打粉をふり、丁字油を塗り、和紙で拭いをかけている姿だった」という武張った姿が描かれている事。

また400年続いた肥後細川藩士の出で、父友房が西郷軍に加わって敵愾隊を率いて戦い、敗れて数年入獄したが、その時の隊旗が見つかり、弘雄への返還式が昭和17年に行われたことも書かれている。

後述の『細川日記』にも昭和19年3月29日に「正午、佐々克堂[友房]先生遺品が佐々弘雄氏の手に帰したるによりとの披露の宴に出席。泊老人、柳川将軍等十余人会食」とある。なおこの柳川平助陸軍中将については、佐々が近衛グループの一員として東条英機内閣打倒、その後に皇道派系の柳川首班内閣を提議している。これは『細川日記』に海軍懇談会のメンバーとして、佐々が強く提案している事が記されている。

淳行氏は前掲書で昭和20年1月24日の自身の日記を抜萃し「朝刊を見て居たら“柳川平助中将”と目にとびこんだ。愕然として父を起しにとんで行った。父は着物を着終ったところだったが、ギョッとしてすぐ茶の間にとんでいらっしゃった。廿二日夜狭心症でおなくなりになったと云ふ。父のかけがへのない(和平運動の)同志だったのに」と書いている。

克明氏の書いた文章で印象的であったのは、ゾルゲ事件の尾崎秀実との関係であった。氏は「父と尾崎の接触点は、重層していた。朝日新聞、朝飯会に昭和研究会。だいいち、昭和研究会に尾崎を紹介し、加入させる労をとったのが、ほかならぬ父である」と明かしている。

このことは取り調べの中で尾崎も認めている。昭和研究会加入後、尾崎は民族部会長として連絡部会に参加して、また弘雄と共に参加した外交部会も含めて、そこで多くの情報を入手したとも述べている(『現代史資料』2ゾルゲ事件2)。

そして尾崎周辺の人物が逮捕されていく中で、弘雄は、克明氏に手伝わせて危険な書類などを焼却していた。逮捕という事態を阻止できたのは、母縫子が秘かに父との結婚媒酌人であり親戚でもあった安達謙蔵元内相に働きかけた結果であったとも書いている。