1964年、東京オリンピックの開会式当日に、事件は起きた
~話題の直木賞受賞作『流』の後日譚を特別公開

書き下ろし小説「I Love You Debby」(後編)
東山 彰良 プロフィール

その夜、東京では台風が接近して雨が落ちたが、大阪ではタイガースとホークスが第6戦を戦った。そして、ホークスのスタンカが快調なピッチングで完封勝利を収めた。9回にはスタンカ自身のタイムリーまで飛び出した。4対0だった。

畳に額を押しつけて金を無心する暁叔父さんを、わたしの父はこっぴどく殴りつけたそうだ。考えつくありとあらゆる罵詈雑言で弟の不始末を呪った。

兄弟は一晩中怒鳴り合い、数時間仮眠をとった。ついに四畳一間のアパートを捨てて逃げ出したのは、翌日の昼前だった。父はつらい肉体労働で貯めた金をボストンバッグの底に敷き、その上に衣類をかぶせた。

昨夜の雨はあがり、ぬけるような秋晴れだった。

開会式当日とあって、そこかしこで交通規制が敷かれていた。いたるところに警察官が立ち、全国民が待ちわびた華々しい日にものものしい趣を加えていた。色づいた銀杏の葉から雨粒がきらきら輝きながら滴り落ち、彼らの警帽にあたってはじけた。

兄弟は興奮した群衆をかき分けて、警察官のまえを務めて平然とよぎり、羽田空港往きの電車に飛び乗った。上着の内ポケットには緑色のパスポートが入っていた。電車のなかで小耳にはさんだところでは、警視庁はこの日のために一万人の警察官を動員して警備にあたっているとのことだった。

「大丈夫だ」兄は弟を慰めた。「兄弟で生きてりゃ、金なんかまたいくらでも貯められる」

暁叔父さんは目をごしごしこすりながら、何度も何度もうなずいた。

背中に硬いものを押しつけられたのは、羽田空港のエスカレーターに乗っているときだった。ふりむくと、そこにヤクザ者を引き連れた王勇昇がいた。赤いジャンパーの下から叔父をぐりぐり押しているのは拳銃にちがいなかった。

「これだけオマワリがうろちょろしてんだ、おまえたちがここで大声を出せばおれはまずいことになる。だが、おまえたちはもっとまずいことになる」

カチリと撃鉄の起こされる音がした。

兄弟は押し黙っていた。

「言ったろ?」王勇昇がにやりと笑った。「おまえにはそんな幸運は残ってねえって」

「わしらは車に乗せられてどこかへ連れていかれた」膝にのせた妹妹に話しかけているかのように、暁叔父さんはぽつりぽつりと語った。「どこかはわからん。東京のことはよく知らんからな。どこもかしこも渋滞しとった。近道すれば、商店街の電気屋のまえには黒山の人だかりだ。みんなテレビにかじりついとったよ。わしも兄貴もずっと黙っとった。それで陽が傾きかけたころ、車の窓から空に大きく描かれた五輪が見えた。ヤクザたちがどよめいた。あれは自衛隊の戦闘機がやっとるんだと言っとった。あの瞬間だけ、ヤクザどもも誇らしげだった。飛行機雲の五輪はいつまでも消えずに、空にぷかぷか浮かんどったよ」

部屋のなかは静まりかえっていた。猫たちでさえじっとしていた。

「連れて行かれたのは、どこかのビルの地下室のようなところだった」叔父はつづけた。「そこで王勇昇が言った。『ひとりは残っておれのために働け。人質だ。もうひとりはどこかよそで働け。ふたりで働いて金をかえせ。心配するな、金をかえし終わったら自由にしてやる。だがそれまでは、おまえらはおれのもんだ。さあ、どっちが残る?』わしと兄貴は顔を見合わせた。わしは兄貴が、自分が残ると言いだすと思った。兄貴はほんとうにそう言ったよ。自分が残るからわしを放してやれとな。兄貴はそういう男だったんだ。しかし自分の不始末を兄貴に押しつけるわけにはいかん。わしも自分が残ると言い張った。兄貴には台湾に家庭があったしな。だが、兄貴は自分が残ると言って聞かんかった。わしらの押し問答を終わらせたのは王勇昇だった。やつはこう言った。『じゃあ、今夜の第7戦に決めてもらおうぜ。ホークスが勝ったら兄貴のほうが残る。で、タイガースが勝ったら、阿暁、おまえが残れ』」ひと呼吸つく。「結果は3対0でホークスの勝ちじゃった」