1964年、東京オリンピックの開会式当日に、事件は起きた
~話題の直木賞受賞作『流』の後日譚を特別公開

書き下ろし小説「I Love You Debby」(後編)
東山 彰良 プロフィール
【PHOTO】gettyimages

オリンピック景気を当て込んで、暁叔父さんとわたしの父は1962年に日本へ渡ったそうだ。

ふたりは建築現場で働いた。仕事はキツかったが、実入りはよかった。アメリカがベトナム戦争に介入するまえで、台湾にいてもろくな仕事がなかったし、オリンピックへと突き進む東京はこれから花開こうとする蕾(つぼみ)のように活気に満ち溢れていた。

建築現場にはほかにも台湾人がいたが、その男と知り合ったのは父ではなく、暁叔父さんのほうだった。王勇昇(ワンヨンシェン)はほかの者より一段も二段も羽振りがよかった。ときどき飯場にあらわれては仕事をするでもなく、作業員たちと与太を飛ばし合ってはのらくらしていた。金のネックレスに金の指輪をはめていた。

体ひとつで生きる若者にはありがちなことだが、まだ20歳そこそこだった叔父はこの男の気風に惚(ほ)れこんだ。

王勇昇も人懐こい叔父を「阿暁(アシャオ)、阿暁」と呼んで可愛がった。飯を食わせ、酒を奢り、女を買ってやった。再三再四わたしの父があんな胡散臭い男にはかかわるなと諌(いさ)めても、叔父は聞く耳を持たなかった。

そして、父の不安は現実のものとなった。

日本のヤクザと関係のあった王勇昇は、スポーツ賭博をまかされていた。叔父が賭博にのめりこむようになるのに、それほど時間はかからなかった。

あとは言わずもがなだろう。あっという間に叔父は日本で2年間働いて貯めた金をすってしまった。それだけですめばよかったが、暁叔父さんは2年どころか、20年働いても返せないほどの借金をこさえてしまった。

10月10日の開会式が近づき、興奮と熱気が日本列島を包みこんでいた。未来には一点の曇りもなく、だれもが前途洋洋の日本に酔いしれていた。そんなきらきらまぶしい東京の、光すら射さない片隅で、王勇昇は静かに切り出した。

「明日はなんの日だ?」

「明日……」叔父は顔を伏せ、テーブルのコーヒーを見つめた。「10月10日、オリンピックの開会式だろ?」

小さな音でジャズがかかっていた。

窓から射しこむ糖蜜色の光のせいで、喫茶店のなかの闇はいっそう深まっていた。商店街の上には万国旗がはためき、浮かれ騒ぐ人々の声が叔父を取り巻く静寂を育てていた。灰皿から立ちのぼる煙草の紫煙が頭をしびれさせた。

「オリンピック?」王勇昇が鼻で笑った。「どいつもこいつも浮かれやがって……今日はなあ、日本シリーズの6戦目がある日だよ」

「………」

「今日ホークスが勝ちゃ明日が天王山だ」

本来は10月8日に行われるはずだった第6戦が雨で1日延びたのだった。そのせいで、もしこの日、つまり10月9日にホークスが首尾よく逆王手をかけることができれば、決勝戦はオリンピックの開会式当日に甲子園球場で戦われることになる。

「おなじ台湾人どうしだ、おまえにチャンスをやろう」

叔父はおずおずと目を上げた。

「今日の試合の賭けはもう間に合わねえ」煙草を口に運ぶ王勇昇の指には金色の指輪が光っていた。「もし今日ホークスが勝ったら、すぐ明日の試合に賭けろ」

「でも、おれにはもう金が――」

「兄貴がいるだろ?」

「だけど……」叔父はごくりと唾を呑んだ。「もし今日ホークスが負けたら?」

「そのときはタイガースが日本一になって、おまえは東京湾かどこかに沈む」

「………」

「逃げようなんて思うなよ」伝票を摑んで立ち上がるまえに王勇昇が言った。「おまえにそんな幸運はねえんだからよ」