1964年、東京オリンピックの開会式当日に、事件は起きた
~話題の直木賞受賞作『流』の後日譚を特別公開

書き下ろし小説「I Love You Debby」(後編)
東山 彰良 プロフィール

「おれたちだって殴られて育った」葉秋生がうなずく。「建前で殴っても、子供はなんとも思わないもんだよ。逆に親が本気で殴りゃ、それは子供にちゃんと伝わるんだ」

「你們懂個屁!(おまえらになにがわかる)」胖子が声を張った。「相手は女の子なんだぞ。女の子が悪さをするのは、かまってもらいたいからよ。あんなふうに殴ったら、デビーは心を閉ざしてしまうぞ」

「If you wanna dump me here, just do it(あたしをここに捨てたいなら、そうすればいいわ)」

わたしたちはいっせいにふりむいた。

いつの間にか、デビーがそこにいた。娘は居間と食堂の境に立ち、泣き腫らした目でわたしをにらみつけていた。

「Dump?(捨てる)」わたしは声を絞り出した。「なにを言ってるんだ、ぼくは――」

「ごまかさないで!」彼女はみんなにも聞いてもらおうと中国語に切り替えた「パパが暁爺爺と話してるのを聞いちゃったんだから。あたしをここへ置いていきたいって言ってたくせに!」

「………」

「パパも暁爺爺も台湾も大っ嫌い!」

口を開く者はいなかった。

妹妹が音もなくやってくると、デビーはすがりつくように猫を抱き上げた。妹妹のほうはそれが気に入らないようで、体をよじって彼女の抱擁から逃れた。それが猫というものである。

重みを増してゆく沈黙を破ったのは、突然部屋に満ちた大歓声だった。

喇叭を吹き鳴らす音、太鼓をドンドン打ち鳴らす音、興奮した解説者の声――摂津もメッセンジャーも好調のようです、今日は投手戦になりそうですね――テレビの画面には、三回表の阪神タイガースの攻撃が映し出されていた。

突然テレビをつけた暁叔父さんの真意をはかりかねて、わたしたちはそわそわとおたがいに顔を見合わせた。デビーでさえ目を丸くしていた。平然としているのは猫たちだけだった。

「1964年といえば」リモコンを麻雀卓に置きながら、暁叔父さんが静かに言った。「なにがあった?」

「1964年?」趙戦雄は目をすがめ、「なにを言ってんだ、唐大爺?」

「ああ、1964年だ」叔父は頓着せずに繰り返した。「なにがあった?」

「おれとおまえは6歳だったな、秋生?」趙戦雄がそう言うと、葉秋生が言葉を継いだ。「あの年はたしかアメリカがベトナム戦争に介入したと思うが」

暁叔父さんがうなずいた。

「東京オリンピックの年だろ?」と、胖子。「東京オリンピックがあった年じゃないか?」

叔父はまたうなずき、無言でわたしに顔をふりむけた。その表情を見て、わたしはなにかが動きだす気配を感じ取った。固唾を呑むわたしを、デビーが気遣わしげに見守っていた。

「1964年は……」わたしの声はかすれていた。「父さんが死んだ年です」

「わしにとっての1964年は日本シリーズの年だよ」そう言って、叔父はテレビ画面にむかって顎をしゃくった。「あの年も阪神タイガースと南海ホークスが日本一を争っとった」