1964年、東京オリンピックの開会式当日に、事件は起きた
~話題の直木賞受賞作『流』の後日譚を特別公開

書き下ろし小説「I Love You Debby」(後編)
東山 彰良 プロフィール

言われてみれば、たしかに甘ったるいにおいがうっすらと感じられた。けっしてだれにも懐かない白猫が、奥の部屋を凝視している。

ぞっとして、思わず手にしたコップを取り落としてしまった。ガラスの砕け散る凶暴な音に、人間と猫たちがいっせいに色めき立った。

「どうしたんだ、哲明?」だれかの声がひどく遠かった。「大丈夫か、顔が真っ青だぞ」

激しい悪寒が背筋を駆け上がり、なんとかこの場を取り繕わねばならないと思ったが、頭のなかは真綿でも詰まっているかのように物事を考えることができなかった。どのみち、考える必要もなかった。わたしの頭がまともに動きだすまえに、趙戦雄が煙の正体を正しく言い当ててしまったのである。

「おいおい、こりゃ大麻のにおいじゃねえか?」

その声がわたしを蹴飛ばした。

スリッパと猫たちを蹴散らし、裸足でガラス片を踏みつけながら、わたしはデビーの部屋へ飛びこんだ。

薄暗い部屋のなかには、まるで怨霊のように白い煙がたなびいていた。窓枠に腰かけた娘の目は虚ろで、その指先には細い大麻がぶら下がっていた。彼女はわたしを見ても動じるどころか、それをゆっくりと口へ運んだ。

大麻の火口が赤く、長く燃えた。

「そんな……」声のふるえをどうしようもなかった。「アメリカから持ってきたのか?」

娘は返事のかわりに、濃厚な煙をふわっと吐き出した。

「わかってるのか……もし空港で見つかってたら――」

「Whatever(どうでもいい)」娘が言った。

あとのことはあまり憶えてない。

葉秋生と趙戦雄にふたりがかりでデビーから引きはがされるまで、わたしは泣きわめき、意味をなさない言葉を叫びながら彼女を打擲(ちょうちゃく)したそうだ。

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足に鋭い痛みを覚え、ようやく我にかえった。

居間の唐物椅子にすわらされたわたしの足に、暁叔父さんが包帯を巻いている。しかし、なぜ自分の足に包帯が必要なのかは、見当もつかなかった。

猫たちがテレビの上から、テーブルの下から、食器棚から、椅子の肘載せからじっとこちらを見ている。その青い目、黄金色の目、灰色の目がわたしを落ち着かなくした。猫たちの目にはそのような不思議な力があった。

「割れたコップで足の裏を切ったぞ」包帯を結びながら、暁叔父さんが言った。「どうだ、落ち着いたか?」

わたしは自分を束ね、どうにかうなずいた。

すると、まわりのことがいっぺんに目に入った。

車椅子の胖子が麻雀卓のむこうで煙草を喫っている。葉秋生は柱によりかかり、心配そうにこちらを見ていた。趙戦雄がガラス片をちりとりに掃きあつめている。

あわててこうべをめぐらせるわたしに、暁叔父さんがたしなめるように言った。

「デビーは部屋におるよ」

わたしはいたたまれずに顔を伏せた。

「子供のすることじゃないか」叔父はわたしの隣に腰かけた。「どんなことがあっても、あんなふうに子供を殴っちゃいかんぞ」

「そりゃちがうぜ、唐爺爺」そう言ったのは趙戦雄だった。「下手をすれば、哲明の娘は刑務所行きだったんだ。哲明がテンパッちまうのも当然さ」