いまのようにセキュリティが充実していない時代、地方興行で「ケツ持ち」の暴力団がいなければ、芸能人の安全は保障されなかった。実際、美空ひばりは1957年、浅草国際劇場で狂信的なファンから顔に塩酸をかけられている。
美空ひばりの個人事務所は山口組三代目・田岡一雄組長が立ち上げた神戸芸能社の傘下にあり、田岡組長自身も役員に名を連ねていたことは周知の事実である。そしてひばりの実弟・かとう哲也は山口組系組織の舎弟頭で、たびたび逮捕歴があった。
芸能人は、自分という商品をいかに高く見せるかが商売です。さらに周囲の人たちが自分という商品を支えることで成り立っています。
大勢の人間が商品で「食べている」わけですから、紅白辞退は非常に厳しい選択だったに違いありません。しかし弟に対する批判を甘んじて受けたひばりさんは、筋を通してNHKには出演しませんでした。
『仁義なき戦い』の原点
昔から芸能界というところには、歌舞伎俳優もいれば、女郎もいれば、猿回しもいました。いわばごちゃまぜ。裏社会とも表裏一体だったから、当然本物のヤクザもいました。
逆にいえば、出自を気にするヤツなんて誰もいませんでした。そんな環境だから芸能界自体にも芸能人にも奥行きがありました。
こうした環境が産み落としたといえるのが菅原文太さんが東映一の大スターに上り詰めることになった映画『仁義なき戦い』シリーズです。
いまも多くの人を魅了する『仁義なき戦い』は当時の芸能界の状況を抜きには語れません。出演した俳優たちは、幸いといっていいのかどうかは分かりませんが、堅気の人だけと付き合っていたワケではありませんでした。なにしろごちゃまぜの芸能界で生きていたんですから。
文太さんをはじめとする俳優たちは、役を割り振られたときに、
「オレはA組の若頭のBさんでいくか」
「オレはC会のD親分だな」
と、身近だった実在の裏社会の人間を演技の参考にしました。あの映画のリアリティは、俳優たちの実生活が作り上げていったのです。実は僕にも『仁義なき戦い』のオファーがきたんですよ。残念ながら実現しなかったけど。
考えてみてください。
俳優たちはまことしやかに架空の物語を演じているわけです。
ではリアリティを担保するものは何か。それは、自分の人生や生き様のなかで学び取ったものしかありません。