「信頼される人」になるために、知っておきたいこと〜なぜ人は人を信頼するのか?

得るのは難しく、失うのは簡単
中谷内 一也

道具への信頼、仲間への信頼

シンジ君 理屈はよくわかるのですが、それって本当の信頼ですか? 

僕の職場でも、みんな同じ会社で働いているんですから利害は一致しています。職務も分担・連携していて、自分の仕事をスムーズに進めるために表面的には協力します。でも、どうもお互いに相手のことを心から受け入れ、助け合っている気はしないんです。そんな状態を信頼と呼ぶのは、何か違和感があります。

ナカヤチ どういう違和感ですか? もう少し掘り下げてみて下さい。

シンジ君 赤鬼・村人連合の話で言うと、結局、赤鬼も村人も自分がかわいいから相手と組んでいるだけですよね。こちらが相手を裏切ったら、まわりまわって自分の身の破滅になる。だから相手を裏切らない。つまり、利害の一致が両者を結んでいる。そんなのを信頼関係って呼べますか?

ナカヤチ それは微妙なところですね。リスクを負ってまで人を信頼するのは、先ほど話したように、何らかのメリットを得るためです。ですから、他人を信頼する根っ子のところに自分かわいさがあるというのは、定義からしておかしなことではありません。

けれども、シンジ君の言いたいこともわかります。自分のために相手を道具として利用する。お互いに相手を道具としてしか見なしていないのに、それを信頼と呼んでいいのか。

シンジ君 そういうことです。

ナカヤチ 赤鬼と村人の共同戦線で考えてみましょう。激しい戦闘で村人に犠牲者が出たとします。そのとき、利害の一致だけが赤鬼と村人を結びつけているなら、村人の死について赤鬼が懸念するのは村人集団の防御力の低下だけです。村人の死を残念がるとしても、それは、大切な武器が一つ壊れたのを残念がることと同じです。

ところが、もし、長年にわたる青鬼からの暴力によって、赤鬼族のコミュニティにも、そして、村人のコミュニティにも、青鬼を悪の象徴とし、青い色を恐れ憎む文化が育まれていたとします。そして、赤鬼も、村人も、相手コミュニティに自分たちと類似した文化や価値観があることを理解していたとします。

さて、青鬼vs.赤鬼・村人連合の激しい戦いで、村人の犠牲者が出たとしましょう。先のような文化のもとでは、青鬼との戦闘によって命を落とした兵士に対して村人は深い敬意を払い、その死を悼むでしょう。

ここで、その村人兵士の葬儀に、共に命をかけて戦っていた赤鬼兵士たちが現れ、骸に向かって最敬礼し、涙を流しながら遺族にお悔やみを述べたとします。この場合には、赤鬼は単に武器の一つが失われたことを残念がっているのではないことがわかるでしょう。

つまり、赤鬼と村人は、青鬼の駆逐という目的を共有し、共同でその目標のために血を流し、そこで生じるいろいろな出来事に対して、悲しみや喜びを共に感じる〝仲間〟となっています。このような関係で相手と助け合うなら、シンジ君の感覚でも信頼関係って呼んでいいと思いませんか。

シンジ君 はい、ただの道具っていうんじゃなく、仲間だというのがミソですね。自分が何に違和感を感じていたのかわかりました。じゃあ、道具から仲間へはどんなふうに変わっていくのですか?

ナカヤチ 「利害が一致する道具同士」から「価値を共有する仲間」への推移の仕方にはいろいろ考えられますね。

お互いが利益を求めて共同作業するうちに気心が知れて仲間意識が生まれるということもあるでしょうし、同じように青鬼を憎んでいるということだけで、直感的に仲間だと思うことがあるかもしれません。つまり、相手が、同じ対象に対して自分と同じ感情を抱いていると知って、その相手を信頼できる仲間と思い込むこともあるでしょう。

いずれにせよ、実利レベルでの利害の一致を超えて、大切なものを共有しているという感覚、つまり、価値を共有しているという意識が信頼の源であるという考えがあります。どうやらシンジ君にも支持してもらえそうなこの考えは、「主要価値類似性モデル」と呼ばれます。