絶対王者・羽生結弦は「メディア対応」も世界一〜イチロー、本田圭佑、北島康介とはココが違う!

森田 浩之 プロフィール
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スポーツとメディアが生み出すパワー

スポーツとメディアという、私たちの身のまわりのどこにでもあるふたつの巨大な存在が結びつくと、とんでもないパワーが生まれることがある。

たとえばサッカーのワールドカップを戦う日本代表をテレビで見て応援するとき、私たちはそのチームを、自分たちの属する共同体の名である「ニッポン」と呼ぶ。そのとき私たちは、いつもはそれほどには意識していないコミュニティの一体感に気づくかもしれない。スポーツとメディアが手を結ぶと、人々に国の存在を確認させることもできるのだ。

先ごろ亡くなった著名なナショナリズム研究者のベネディクト・アンダーソンは、国民を「想像の共同体」と呼んだ。国民というものは「実体」があるわけではないが、私たちは私たち自身の集合体を(たとえば)「日本人」と思っている。それは国民が「イメージとして心の中に描かれた」ものであるからだと、アンダーソンは論じた。

テレビでスポーツの国際試合を見ているときに自分を「日本人」と感じたとすれば、それはメディアとスポーツが「国民」というイメージを「想像」するのに大きく貢献したためだ。目には見えない「国」というものが、ピッチを走る11人の肉体に投影されたからだ。

アスリート個人の言葉も、さまざまな方向に働く強い力を持つことがある。団体競技の代表チームのように、コミュニティの一体感を確認させることもあるかもしれない。

あるいはコミュニティが模範とする「ロールモデル」を提供することもあるだろう。人々に「自分もこうありたい」「うちの子もこんなふうに育ってほしい」と思わせるような役割だ。

「僕は『僕』です」

羽生結弦がある意味で、日本人の重要なロールモデルになっていることはまちがいない。2014年12月にグランプリファイナルで連覇したあとの会見で、羽生にこんな質問が飛んだ。

「わが子を羽生選手のように育てたいというお母さんが多いのですが、どうしたら羽生選手のように育つと思いますか?」

私がこの記者会見に参加していたとしたら、とてもじゃないがこの質問は恥ずかしくてできない。現役時代の中田英寿に聞いたら、「……それは、僕にはわからないんで」と話を打ち切られそうな問いだ。しかし、羽生はこう答えた。

「僕は『僕』です。人間はひとりとして、同じ人はいない。十人十色です。僕にも悪いところはたくさんあります。でも悪いところだけではなくて、いいところを見つめていただければ、(子どもは)喜んで、もっと成長できるんじゃないかと思います」

こんな言葉を聞かされたら、半分は冗談で、けれども半分は本気に、羽生結弦は実は「人間」ではないのではないかと思えてくる。本当は、彼が例えられることも多い「ピーターパン」ではないのか、と。いつまでもみずみずしく清潔で自由闊達なピーターパンは、人間とも妖精ともつかない「永遠の少年」だ。

現代の一流のアスリートであるかぎり、メディアに映る自分を強く意識しないはずはない。2009年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)決勝の韓国戦で、それまで不振だったイチローは延長10回に勝ち越しタイムリーを放ち、日本を世界一に導いた。試合直後のインタビューで、イチローはこう語った。

「日本からの目がものすごいことになってると思って、自分のなかで実況しながら打席に入っていて、そういうときって結果出ないんですけど、ちょっとひとつ壁を越えたような気がしました」

試合はロサンゼルスで行われていたから、イチローの言う「日本からの目」とは、もちろんテレビの視聴者のことだ。多くの日本人がこの瞬間に自分を注視していることを想像し、そんな自分のことを頭の中で「実況」しながら打席に入っていたという。