誰も知らないヘッドホン「奇跡の復活劇」
〜その普及と進化はくらしをどう変えたのか?

私的空間への欲求と科学神話の時代
原 克

利便性を獲得する一方、なにを手放したのか?

さはさりながら、私的空間とは本来、総合的なできごとであるはずのものである。

それを、音波を物理的に遮断する技術的機能という限定的なできごとに、還元してみせる。音波制御という部分真理をもちだして、そこにこそ問題の核心があると言いつのる。だから、この限定的課題を克服しさえすれば、騒音とわたしのプライバシーという全体的問題が解決できる。名物コラムニストの論理構造はこうしたものだ。

部分をもって、あたかも全体ででもあるかのように語る。これは、全体を解明するテキストというよりも、むしろ全体を隠蔽するテキストである。神話的に科学を語る。そんな語り口にしばしば見受けられる修辞法だ。

科学的に裏打ちされた、便利で合理的なモダンライフ。こうした文法にのっとって、20世紀は科学を神話的に語りつづけてきた。つまり、20世紀は科学の時代ではなく、科学神話の時代だったのだ。

20世紀大衆社会において、科学情報は「現代の神話」として作用した。科学情報といっても、それは、専門の科学者がもつ、純然たる科学知識ではなく、20世紀大衆が共有した漠然とした科学情報、つまり大衆化した科学情報のことである。「科学イメージ」といってもよい。

科学イメージとは、ときに誤謬をふくみ、大衆の願望にいろどられた科学表象の総体である。

現代の神話である科学イメージとは、しかし、思いのほかやっかいなものである。正確な科学情報を知りさえすれば曖昧な科学神話を払拭できる、というようなものではないからだ。

啓蒙すれば迷信は退治できる。そういうものではないのだ。アドルノとホルクハイマー『啓蒙の弁証法』をもちだすまでもなく、啓蒙そのものがすでにして神話構造を内部に宿しているからである。

新聞やテレビ、一般読者向けのポピュラー系科学雑誌が、20世紀を通じ再生産してきたのは、そのきまじめな編集意図とはまったく別の次元において、科学情報のもつ「啓蒙の弁証法」という構造そのものだったといってよい。

確かに、現代の科学神話は、利便性なり合理性なり、ある種のメッセージをボクらに送りとどけてくれる。しかし、それは、なにかを解き明かしてくれる説話の体系である以上に、なにかを隠蔽する表象体系として機能してしまっている。そんな場合が少なくない。なにかが獲得されるのとひきかえに、なにかが失われるはずなのに、それは語られないのだ。

もちろん、ボクらは、そうした便利なモノたちの恩恵に浴しているのであり、その恩恵の外部では、くらしがなりたたないことも多い。そういった環境は、もはや、ボクらにとって「第二の自然」になってしまっている。しかも、そこからの脱出の試みが、けっして容易でないことも薄々感じている。

しかし、好むと好まざるとにかかわらず、ボクらのくらしが、そうした利便性の神話圏に囲いこまれているのならば、せめて、自分の正確な立ち位置ぐらいは知っておきたい。あらたな利便性を獲得したかわりに、なにを手放したのか。なにとひきかえにしたから、いまここに日々のくらしが置かれているのか。それは知っておきたい。認識こそ、すべての発端になるからである。

はたして21世紀は、どういった語り口でくらしと科学を語ってゆくのだろうか。

原克(はら・かつみ)
早稲田大学教授。1954年生まれ。立教大学大学院文学研究科博士課程満期退学。独ボーフム・ルール大学、ベルリン・フンボルト大学客員研究員を経て、現職。専門は表象文化論、ドイツ文学。19~20世紀の科学技術に関する表象分析を通じて、近代人の精神史、未来を指向する大衆の文化誌を考察。著書に『ポピュラーサイエンスの時代』『流線形シンドローム』『サラリーマン誕生物語』『OL誕生物語』など多数。