『あさが来た』広岡浅子だけじゃない!明治・大正・昭和をつくった「女傑」たち

週刊現代 プロフィール

舎弟3000人の女親分

藍子は劇中のあさ顔負けに自らヤマに入っただけでなく、あるとき坑内の棚が落ちて負傷し、生涯足をひきずるようになった。

〈足が悪くても、一度山にはいると、坑内のクモの巣の中を、縦横に走り廻るほどの健脚ぶりは不思議である〉(『五代友厚秘史』)

五代は臨終の時、病床にいたベルツ医師に「わしの家業を受け継ぐ者は藍のような気がする」と言ったという。その言葉を聞いた藍子は、五代の名を守るため縁談を断り通し、維新の元勲・松方正義の前で生涯独身を宣言。残念ながら採掘成績ははかばかしくなかったが、言葉どおり鉱山業に打ち込んで独身を貫き、昭和40(1965)年4月に90歳で亡くなるまで「最後の山師」として鉱山を経営し続けた。

藍子は鉱山経営の傍ら右翼の巨魁・頭山満や日立コンツェルン創業者・久原房之助とも親しく付き合い、しかも男物の下駄に断髪、絣の着物という「男装の麗人」だったと伝わっている。

 

男装の女経営者として藍子以上に名高いのが、「因島の女親分」麻生イトだ。藍子と同じ明治9年に尾道の商家に生まれ、造船景気に沸く因島で旅館、船舶解体業、口入屋(=人材斡旋業)を営み、舎弟3000人を率いる「麻生組」の女親分として名を馳せた。今東光原作、勝新太郎主演でシリーズ化された大ヒット映画『悪名』(昭和36年公開)では、麻生イトだけが実名で「因島の女王」として登場しているほどである。

「麻生イトさんを語る上で最大のエピソードといえば、女でありながら刃傷沙汰に見舞われたことでしょう。口入屋稼業のトラブル相手に日本刀で頭をざっくり割られる重傷を負うのですが、ひるむことなく対峙した。

しかも、切りつけてきた人間が刑務所から出所すると、『しっかり務めを全うせいや』と言い、身元引受人になって自分の許で使うんです。加害者は以来、すっかり心服してひれ伏したそうです」(尾道学研究会事務局長・林良司氏)

イトは商売で儲けたカネを地元の上下水道整備などの公共事業や教育に還元した。因島の土生幼稚園や現在、立石公園となっている庭園「三秀園」などにその名残をとどめている。政財界や文化人との交流も幅広く、憲政の神様・尾崎行雄や俳人・河東碧梧桐などがイトの許を訪れたという。