
来場者たちは皆、人類の進歩と明るい未来を信じていた—戦後日本の最大のお祭りだった万博。会場で胸躍らせたファンたちと「祭りの仕掛け人」が語った。
「ソ連館」も人気だった
山下 大阪万博というと、ひたすら行列に並んでいた記憶があります。
当時、私は小学校6年生で広島に住んでいましたが、あれほどの人波を見たのは生まれて初めてでした。
石井 万博には日本人だけでなく、外国人もたくさん来ていましたね。僕は大阪市内に住む中学3年生だったんですが、当時はまだ外国人が珍しかったので、色んな国の人たちにサインしてもらいました。
堺屋 大阪万博こと「日本万国博覧会」が開催されたのは、今から45年前の'70年。3月から9月までの半年間で、約6422万人が訪れました。
石井 国民の半数以上が見た計算になりますね。
堺屋 ただ、万博の発起人だった私としては、開会からしばらくの間は不安で仕方なかったんです。通産省は、総入場者数を3000万人と見積もっていましたが、当時、人気のあった社会情報学者のマーシャル・マクルーハンは「万博は時代遅れ」と断じ、その流れを汲むアメリカのスタンフォード研究所が行った調査では「日本万国博の入場者数は1850万人」と予測していましたから。
天皇陛下をお迎えして開会式の行われた3月14日は入場者も少なく、みぞれの降る寒い日だった。「こんな調子でお客さんが集まるのだろうか」と心細かったことをよく覚えています。
山下 それは意外ですね。当時、私が愛読していた『週刊少年マガジン』をはじめ、少年向け雑誌はこぞって万博を取り上げていました。「みんな見ているのに、行けなかったら恥ずかしい」と思っていたくらいです。
堺屋 当初、万博は「大阪の地方行事」と見なされていたんです。東京の人からは「大阪人はケチだから土産物が売れないだろう」とか「大阪人は列を乱す」など、ひどいことを言われていた(笑)。
ところが開幕から2ヵ月ほど経つと、実際に万博を見た人たちからの「素晴らしかった」という評判が口コミで東京にも伝わり、一気に入場者が増えたんです。夏休みには、万博に行く乗客で東海道新幹線が満席になるほどでした。