産科医療が危ない!深刻な医師不足、過酷な勤務…それでも僕が産科医を続ける理由

鈴ノ木ユウ, 荻田和秀

実は大学に入ってからも音楽をやっていました。非常に不真面目な学生だったと思います。あまりに授業に出ていなかったために、教授から「君が荻田くんか、初めまして」と言われるほど。「ああ、初めまして」と正直に言ったら、めちゃくちゃ怒られました(笑)。

だから「医者になったら死ぬほど真面目にやろう!」と決意したのです。初めは研究者を目指そうと思っていました。研究者はいわばアーティストです。アーティストになりたい、認められたいと思うあまり、おぼちゃん(小保方晴子氏)のような人も出てきてしまうわけですね、あの業界では。

ただ、そのときは自分の志向が定まっていなかったため、いろいろなことをできる科がいいと考えました。救命救急も考えたのですが、そのときたまたま産科の救急現場に居合わせたのです。産婦人科であれば、研究も外科的要素も救命救急の一面もあるんだなと気づきました。そんなわけで、僕は産婦人科を選んだのです。

唯一「おめでとう」と言える産科

僕の時代はまさに「研修医残酷物語」でした。その頃は、少子化が懸念され始めた時代でしたが、ベビーブーマーのお産をとるために、産科医がかなりダブついていました。先輩から「お前、アホやな。産科に来てもポストないで」と言われる始末。

その割に、研修医は過酷な状況で、休みがないのは当たり前。8連続当直(泊まり勤務)も普通のことで、僕は最多で12連続当直したこともありました。しかも薄給。お金の話をしてもしょうもないのですが、初任給12万とうたわれていたのに、フタを開けてみたら8万5000円。借りていたアパートの家賃が7万5000円。こうなったら先輩にすがりついて、たかるしかありません。「こなきじじい作戦」です。

当時、僕がいた病院に、末期のがんで長期入院しているおばあさんがいました。そのおばあさんの病室に行くと、お見舞いの品とかお菓子がたくさんあって、「私は食べられへんから、これ、食べ」とくださるのです。今だから白状します。用もないのに、そのおばあさんの病室へよく行きました。食べ物をくださるので……ハイ、僕はパラサイト研修医でした。

時間もない、お金もない、とてもじゃないけど健康的な生活じゃない。健康を削るだけなら、若いので寝れば回復します。ただ、中には魂を削ってしまう人もいました。僕と同世代には、過労死・自殺が相次ぐような状況で、産科医の5年生存率(5年勤務を続ける率)は半分を切ると言われていたのです。

今は、新研修医制度(新医師臨床研修制度・平成16年創設)が大幅に変わったおかげで、そこまで過酷な状況ではなくなりましたが、産科医の人材不足は深刻です。正確に「産科医療の崩壊」と認識されるようになったのは、2000年代後半です。

2006年に起きた「大淀事件」(奈良県の大淀町立大淀病院の妊婦さんが意識を失い、その後19軒の病院が搬送を受け入れることができず、脳内出血で死亡した事件)が医者の産科離れに拍車をかけたと言えます。2008年には「墨東病院事件」(総合周産期医療センターでもある東京都立墨東病院が産科医不足のために、妊婦さんを受け入れることができず、死亡した事件)も起こりました。大淀事件や墨東病院事件は「妊婦たらい回し」とメディアで伝えられ、産科医不足問題が明るみに出たのです。

二度とこのような悲劇が起こらないよう、周産期医療は変わりつつあります。妊婦さんの救急搬送に対応するシステムは、各自治体でも検討と改善が行われました。それでも、産科医、あるいは新生児医が足りていない現状は未だ改善されていません。人数の問題に加えて、配置の問題もあります。