<たかみなへ 周りを恐れずに、自分の意見を言ってみなさい。そして、嫌われる勇気を持ちなさい>
リーダーとしてうまくAKB48をまとめきれずに悩んでいたころ、秋元(康)先生からこんなメールをもらったことがあります。このひと言があったから、私はリーダーという立場を、最後まで務めあげることが出来たと思っています。
当時私は嫌われたくないという気持ちから、メンバーの欠点や問題を見つけても、それを指摘することができませんでした。でも、それでは個々の力は伸びないし、なによりチームとしてまとまらない。
このままじゃいけないな。…そう思っていた時に秋元先生からメールをもらって、決心がつきました。「嫌われてもいいから、チームのために、AKB48のために、言うべきことを言わなければ」と。
いま、AKB48は「国民的アイドル」と呼ばれるまでに成長しました。「あれだけ大きなグループを、どうやってまとめていたの?」とよく聞かれます。もちろん、いろんな要因があります。周囲の助けもあったし、幸運だってあったはず。ひと言では語れません。でも、「嫌われる勇気を持つ」と決めたことで、チームをまとめていく覚悟ができた。やっぱり、覚悟を持つことが大切なんだと思いますね。
初期メンバーとしてAKB48に加入したのが、05年、14歳のときでした。当初はグループ全体でも20人ほどしかいませんでしたが、私はなにも初めから「リーダーになりたい」と思っていたわけではありません。リーダーになる「しかなかった」んです。
ご存じない方も多いと思いますが、実は、私はAKB48の最初のインディーズシングル(『桜の花びらたち』、06年2月発売)で、単独のセンターポジションをもらっていたんです。次の『スカートひらり』(06年6月)では、前田敦子とのWセンターでした。
当時は二人合わせて「あつみな」って呼ばれていて、私はなんとなく、このグループは私と敦子2人のセンター体制でやっていくのかなと思っていました。
でも、メジャー・デビューシングル『会いたかった』(06年10月)のPVで敦子が大きくフィーチャーされ、次第に「AKB48のセンターは前田敦子」というイメージが固まってきました。彼女は、センターというポジションを得たことで、日々輝きを増していった。
傍から見ていて、分かったんです。「ああ、私が敦子のポジションになることは、もうないんだろうな」って。
私は、本当は前田敦子になりたかったのかもしれない。でも、なれないんだって、気づきました。