中国理解の急所はココだ! 「知の巨人」エズラ・ヴォーゲルが描く鄧小平

【まえがき公開】『鄧小平』(聞き手:橋爪大三郎)
エズラ・F・ヴォーゲル, 橋爪大三郎

それからフランスで5年、ソ連で1年を過ごして、1927年に帰国した。中国が西欧の産業文明にどれほど遅れをとっているか、身に沁みてわかっていたし、ソ連の共産主義がどんなものかも肌でわかっていた。

帰国してすぐ鄧小平は、国共分裂にともなう争乱に巻き込まれる。ほどなく、江西省のソヴィエト地区に派遣されたが、そこでは毛沢東が、中国革命を目指して農村根拠地づくりを進めていた。

鄧小平は、毛沢東の率いる長征にも加わり、山西省南部を基盤に抗日戦を戦った。鄧小平はまもなく、共産主義の思想が堅固で、指導者としての素質もそなえた人物として、毛沢東の目にとまるようになる。

鄧小平は、1978年12月の第11期三中全会で、中国の最高指導者となったのだが、このときまでに、万全の準備を整えていた。外国で過ごした経験もあり、人民解放軍を12年間指導した経験もあり、党の宣伝文書を起草した経験もあり、1949年から1952年まで、1億人の人口を擁する西南局で、最高指導者をつとめた地方行政の経験もある。

1952年に北京に呼ばれてからは、毛沢東と周恩来のかたわらで業務にはげみ、中国のさまざまな重要問題を熟知するようになった。1956年から1966年のあいだ、中国共産党の総書記をつとめ、雲の上の存在である最高指導者の毛沢東に代わって、日々の業務を処理した。

1973年から1975年にかけては、周恩来の癌(がん)が悪化したので、その右腕として、外国の要人と会見したり外交政策を立案したりした。

鄧小平が指導力を発揮したのは、しかし、幅広い長期の経験によるばかりではない。毛沢東の誤った政策である大躍進や文化大革命で、鄧小平も個人として辛酸をなめ、江西の片田舎にやられて、どういう改革が必要かじっくり考える時間があったことが大きい。

鄧小平は、権力の座につくと、日本を10日間じっくり訪問し(1978年10月)、東南アジア(1978年11月)、アメリカ合衆国(1979年1月)も訪れた。

鄧小平は飛び抜けて有能な指導者だった。重要なこととどうでもよいことをはっきり区別し、諸外国と良好な関係をたもち、近代化を進めるにはどうしたらよいかについて中国の学生たちや指導者たちを教育する道筋をつけた。