「母はわたしを愛さなかった」
その事実を受け入れ過去を手放した、ある女の告白Ⅲ

あれはしつけではなく「虐待」だった…

わたしの態度に現れた変化

怒りの嵐が収まり始めると同時に、母のことを考える時間が減っていった。

母に対する執着心が薄れた、というほうが近いかもしれない。

ある日、同僚にこう声をかけられた時にはとても驚いた。

「安田さん、最近、ギスギスしたところがなくなったのね。以前よりもずっと穏やかで、何だか話しやすくなったわ」

実際、わたしは長年、胸のあたりに感じていた”重し”や”つっかえ”のような圧迫感を、あまり意識しなくなっていた。

嘘泣きをする母の夢を見る回数も減った。

冷静さを取り戻していくととともに、自分にも自信が出てきた。

長年つきあっていた恋人には、「最近、あまり癇癪を起こさなくなったね。それに、我慢するということを覚えたんだな」と言われた。

そして、わたしは母のことも、自分と母との関係についても、もっと客観的な目で見られるようになっていったのである。

母という人間の成りたち

子どもの頃から知っていた母を、わたしは違う目で見るようになった。わたしを虐待し、コントロールしようとした母とは、違う母の姿を見つけ出すようになっていた。

わたしが中学生の時に母から聞いた話によれば、まだ幼い頃、母は空襲で焼け出されて、夜中に歩いて逃げて疎開したのだという。疎開先では、ひどく虐められたらしい。戦争が終わったあとも、お金がなく、毎日惨めな思いをしたと聞いたこともある。

加えて、母親のしつけが厳しく、よく平手打ちをされたと言っていた。母もその母親に虐待され、充分な愛情を受け取ることなく育ってきたのだろう。

祖母から母へ、そしてわたしへと、痛ましい虐待の連鎖が起きたのだ。

しかも、母は大学へは行かせてもらえなかった。だから、自分の夢や望みを、娘を使って叶えようとし、わたしを思い通りにコントロールしようとしたのかもしれない。

人一倍、世間体を気にする母の性格は、やはり世間体を気にする、その母親の性格を受け継いだらしかった。

疎開時代に受けた虐めや、多感な少女時代に体験した惨めさ、進学を諦めざるを得なかった挫折感が、母の性格に大きな影響を与えたことは想像にかたくない。

そして幸せを夢見て、結婚したところ、浮気を繰り返す夫の愛情を確かめられなかった。子ども時代に味わった愛情の飢えを、夫が満たしてくれることはなかったのだろう。

そんな父を、母は憎んでいたのかもしれない。だが自分では稼ぐことができず、父に依存するしかない母は、その憎しみを父にぶつけることができなかった。だからこそ、その憎しみを娘であるわたしにぶつけたのかもしれない。