「私は○○とともにある」は偽善の言葉?
~パリ同時多発テロ後、SNSに溢れた”やわらかい言葉”を許せるか

森田 浩之 プロフィール
〔PHOTO〕gettyimages

「他人のおじいさんの葬儀で嘆き悲しむ。そのくらいの違和感と嫌悪感」

ところが簡単に示すことができるようになった「○○とともにある」という姿勢は、世界に等しく向けられるわけではないから、厄介なことにもつながりうる。

フェイスブックのトリコロール写真については「レバノンでも前日にテロが起きたのに、なぜフランス国旗だけ?」だとか、「空爆や誤爆で亡くなる中東の人たちを、なぜ同じように悼まないのか」といった問いかけや批判が目についた。

日本語のウェブサイトを見ていると、写真にトリコロールを重ねたユーザーに対して〈やめとけよ、偽善者ぶるの〉とストレートに書いていたブロガーもいた。〈もしくは正直に「流行に乗ってるだけです~」と上の方にでも書いとけ〉。

その一方でトリコロール写真を選んだというある書き手は、その理由を〈フランスやヨーロッパに住む、滞在する友人・知人に気持ちはそばに在る、ということを伝えたいから。以上。/もうそれだけ。なんら政治的な意図はない〉ときっぱり書いていた。

この筆者の場合、〈「中東やアフリカなどで起きているテロにはプロフ写真を変えないのか?」と言われても、そこに友人がいないから〉ということらしい。

外国での反応をネット上でいくつか調べてみたが、どこの国でも同じような議論が起こり、同じようにすれ違ったまま終わっているようにみえた。けれどもその過程で見つけたロシアのウェブサイトが紹介していた市民のコメントは、僕が共感を覚えたもののひとつだった。

「亡くなったフランス人に対する哀悼の意をひけらかすのは、他人のおじいさんの葬儀で嘆き悲しむくらいの違和感と嫌悪感がある」と、ウラジーミル・コズロフスキーはフェイスブックに書いた。

「自分がそのおじいさんの死に最も打ちひしがれた者であるように振る舞えば、故人の友人の当惑と遺族の嫌悪を引き起こすだけだ。強い哀悼の意を公の場で示す行為は、自分にとって最も近しく、最も愛していた相手に対してこそふさわしい」

フェイスブックのトリコロール写真機能は、パリのテロの犠牲者と、たとえばその前日にベイルートで起きたテロの犠牲者の命の価値に、明らかに差をつけることになったとは思う。でも、それはある意味で避けられないことなのだろう。

今回パリが狙われたのも、この都市を襲えば高い宣伝効果があるとISが考えたからだ。世界のメディアとその受け手である僕たちは、テロリストのこの手口にまんまとのせられている状況と言ってもいいだろう。

フェイスブックがプロフィール写真をワンクリックでトリコロールに重ねるという機能を加えたから、命の「重さ」の違いがいくらか目に見えたけれど、僕たちはもっと無意識なレベルで同じような判断をしていることがある。

今年初め、2人の日本人がISの人質にとられて殺害されたとき、そのひとりであるジャーナリストへの連帯を示すため、多くの人が「I am Kenji」と言ったり書いたりした。だが、もうひとりの日本人への気持ちを示すために「I am Haruna」と言った人はあまりいなかった。いわば「Kenji」はパリであり、「Haruna」はそれ以外だったことにならないか。