「いけずやわ、ほんまに」
〜よそ者には敷居が高い「素顔の京都」の楽しみ方

表と裏と、この街には知らない顔がある
週刊現代 プロフィール

いったい、彼らはなぜこうした不思議なコミュニケーションを行うのか。腑に落ちる仮説が、「いけず」は京都の街の質を保つための自主点検、ダメ出しのシステムなのではないか、というものだ。

「京都の人は、隣の家の玄関先が汚れていると『きれいにしてはりますなあ』と声をかける。これは『汚いぞ』と叱られているわけで、黙って掃除するしかありません。街並みにそぐわないアルミのガレージを作れば『えらいモダンですなあ』と嫌味を言われる。こうした『いけず』が、京都の街並みや文化をメンテナンスし、『京都らしく』維持していくために一役買っているのではないでしょうか」(前出・藤原氏)

食にせよ、建築にせよ、工芸品にせよ、京都は文化の質において今でも日本一とされる。しかし何の努力もなしに、1000年以上も高い水準を維持することはできない。「いけず」という形で住民同士が声を掛け合い、ときにはよそ者を強烈に皮肉りながら、一人一人が「自分も京都の街の一部だ」という思いを強めてゆく—そんな巧妙な仕組みが働いているのだ。

だから、京都人の心の奥には、「京都を訪れる客人にも、客人なりの矜持がなければならない」という考え方がかたく根付いている。お客様は神様ではなく、一人の人間。ホストとゲストが互いを尊重しあって初めて「おもてなし」も成立する。京都はまるで「オーダーメイドのテーマパーク」のような街なのである。

この思想を今も最も色濃く残しているのが、おそらく、祇園をはじめとした「五花街」に生きる人々だろう。京都の花街に詳しい写真家・作家の相原恭子氏が言う。

「接客マニュアルのようなものは、花街にはもちろんあり得ません。好みや性格は一人一人違いますから、そのお客に合ったマンツーマンのもてなしが基本になる。『人を重んじる』ということが花街の商習慣の根っこにあり、それが端的に現れているのが『一見さんお断り』のしきたりなのです」

今でこそ、芸妓や舞妓はずいぶんと身近な存在になった。だが本来、花街は京都の中でも最もかたく閉ざされ、一般人はそのとば口にさえ容易には立てない、文字通りの「奥座敷」である。

品のいい客が大事にされる

真に高級なお茶屋は今なお看板も目印も出さず、一見さんお断りどころか、外から見てもお店だとは分からない。むろん、ネットで情報を集めることなど不可能。「西陣、室町、坊主、大学」が昔ながらの客筋で、最低でも3回は顔を出さなければ「本当のお客さん」とは認めてもらえない。

「お茶屋との付き合いは、京都人にとってステータスでもあるのです。たとえば、あるお茶屋と3代にわたる付き合いがあるという会社ならば、『あそこは支払いもきちんとしていて信用できる』とみなされる。ただ大金を使えばいいというものではなくて、大富豪でもないのに一晩で何百万円も使い、その後まったくお店に来ないというような人は尊敬されない。自分の甲斐性の範囲で長くお付き合いする、そんな品のいい客のほうが尊ばれるのです」(前出・相原氏)