作家・町田康「私にとって特別な連載でした」〜スピンク日記特別公開

「私はスピンクといいます。犬です」
町田 康 プロフィール

* * *

 主人・ポチはクルマを運転しながら私に名前を付けてくれました。

 私を空港まで迎えにきて、その帰り道でした。

 主人・ポチは焦りに焦っていて、その焦り具合はパニックと呼んでもよいくらいでした。なぜなら、二、三日前から美徴さんに、「家に連れてきてクレートから出したらすぐに名前を呼んで、いろんなことを覚えさせなければならないので、それまでに名前を決めてください」と言われていたからです。

 にもかかわらず、主人・ポチはまだ名前を決められませんでした。家にはあと数十分で着いてしまいます。

 主人・ポチはハンドルを握り、前方を見つめたまま、「ギャボス。うーん。だめだ。カボスとギャオスが合併したみたいだ。つうことは、ええっと、ギャンジョーネ。ううん。なんだろう、この濁点の感じは。濁点はやめよう。ゴルボス。ああっ、どうしても濁ってしまう。若いときにボルヘスを読み過ぎた報いだろうか。ムクイーヌ。って濁ってないけど、こいつはむく犬ではない。ああっ、駄目だあっ。もう芝公園じゃないか。シバ。ダンシングシバ。司馬遷」なんて頻りに苦悶していましたが、やがて、美徴さんが、「ちょっと暑くない?」と言うと、「そういうことはこのスピンクに仰ってくださらんか」と言い、エアコンのスイッチを押して、「あっ」と言いました。

「どうしたの」

「僕、いまなんて言った」

「そういうことはこのスピンクに仰ってくださらんか、って言いました」

「あ、スピンク。スピンク、いいんじゃない」

 主人・ポチはそう言うと、いかにも犬を呼ぶような声で、「スピンク。スピンク」と、何度か言って、

「スピンク、どう?」

 と美徴さんに尋ね、美徴さんも、「いいんじゃない」と言って、私の名前はスピンクに決まったのです。