「差別」「排斥」はニッポンの娯楽になってしまったのか?

そしてヘイトスピーチが日本を侵食する
安田 浩一 プロフィール

人種差別研究で知られるハワイ大学のマリ・マツダ教授は、ヘイトスピーチは「マイノリティに対して恐怖、過度の精神緊張、精神疾患、自死にまで至る精神的な症状と感情的な苦痛をもたらす」としたうえで、その定義を以下の三点にまとめている。

[1]人種的劣等性を主張するメッセージであること
[2]歴史的に抑圧されてきたグループに向けられたメッセージであること
[3]メッセージの内容が迫害的で、敵意を有し相手を格下げするものであること

つまり、絶対的に不平等な関係性のなかから生まれるのが「ヘイトスピーチ」なのだ。

単なる不快語、罵倒語の類を「ヘイトスピーチ」としてしまえば、差別の本質が見えなくなる。それこそ子供の喧嘩や暴力団の抗争まで「ヘイトスピーチ」となってしまう。

だが、在特会はもちろんのこと、マスコミですらそれを理解しているとは言い難い。

たとえば以下に挙げる「産経新聞」のコラム記事こそが、その"無理解"の典型ではなかろうか。これは安保法案に反対する作家・大江健三郎を批判した記事だが、護憲集会における同氏のスピーチに対し、記者は次のように述べている。

〈「集団的自衛権の行使容認」イコール「戦争」と思い込んでいる人たちの言動が、荒れに荒れているのが気になります。

その代表が作家の大江健三郎さんです。彼は憲法記念日に横浜で開かれた「護憲集会」での演説で、安倍晋三首相批判に熱を入れるあまり、「安倍」と呼び捨てにしていました。

どんなに相手の考え方や性格が嫌いでも、一国の首相を呼び捨てで非難するのは、大江さんが大嫌いなはずの「ヘイトスピーチ」そのものです〉 (2015年5月8日付)

思わず椅子から転げ落ちそうになった。いったい「一国の首相を呼び捨て」にする行為の、どこが「『ヘイトスピーチ』そのもの」なのか。

安保法案に絡めて大江を批判することは産経の「立ち位置」として理解できたとしても、「呼び捨て」を「ヘイト」とするのは無理筋どころか無知に等しい。まるでわかっていない。

いや、リベラルだと思われている新聞でも同様の認識が示されることもある。

「アサッテ君」とヘイトスピーチ

私が愕然としたのは「毎日新聞」(14年9月7日付)に掲載された社会面の四コマ漫画「アサッテ君」(東海林さだお作)だ。

その内容は、まず、アサッテ君の長男(小学生の夏男)が、友人に対して「バーカ!」と罵る場面から始まる。すると罵られた側の友人が「ア! それいけないんだよ」と返す。

さらに「そういうのヘイトスピーチっていうんだよ」と続けると、夏男は「ソーナノ?」と愕然とした表情を見せる。そして最終コマでは両者が肩を叩きあいながら「なんだかやりづらくなってきたなあ」「おたがいにな」と苦笑するシーンで締められるのだ。

友人同士が「バカ」と罵りあうことは、日常的な風景でもあり、「ヘイトスピーチ」でもなんでもない。それ以上に不快であったのは、漫画から漂ってくる、ヘイトスピーチ批判への穏やかな「抵抗」である。「やりづらくなってきたなあ」という最終コマの一言は、明らかにヘイトスピーチ批判の"窮屈さ"を伝えている。

「ヘイトスピーチ」が人間を傷つけ、その存在をも否定しているといった深刻さは、少しも感じとることができない。逆に、「ヘイトスピーチ」を批判する行為そのものが、いかにも「やりづらい」世の中をつくっているかのように揶揄している。

この漫画を読んだ読者の一部は、一般的な罵倒表現をもヘイトスピーチだと受け止めるばかりか、被差別の側からヘイトスピーチを論じることすらをも「やりづらい」ことだと理解しかねないだろう。

「ヘイトスピーチ」なる言葉は、確かに一般化した。流行語にもなった。だが、その内実はまだまだ社会全体に正確に伝わっていない。

さて、もうひとつの変化は、本書の主役とも言うべき在特会の衰退である。