「差別」「排斥」はニッポンの娯楽になってしまったのか?

そしてヘイトスピーチが日本を侵食する
安田 浩一 プロフィール

差別する側の一挙手一投足に目を向け、怒ったり嘆いたりすることで、何かをわかったかのような気持ちになり、それでも「淘汰」を期待した。そうなることを信じた。しかし、"差別デモ"の通った後には必ず被害者が産み落とされるのだという事実に、さほどの関心を示してこなかった。

「いずれ消えてなくなる」と願望を語り合っているその間にも、被害者は増え続けた。「死ね、殺せ」といった罵声に眉をひそめても、いま、その場に、実際に「殺されるかもしれない」と脅えている者がいることに、想像を働かせることはなかったのだ。

要するに、かつての私は、私たちは、傍観者にすぎなかった。たとえば目の前で集団暴行がおこなわれていても、「ひどい」と口にしながら、しかし、暴行も長くは続かないだろうと身勝手な願望を抱えて、その場を離れてしまうようなものだった。殴られ続ける被害者を置き去りにして。

いま、確かに在特会はかつての勢いを失っている。デモの回数も、動員力も落ちている。だが、それは「淘汰」されたことになるのだろうか。

私は少しもそう思っていない。「淘汰」ではない。早い話、用済みになっただけのことだ。

差別のハードルを下げた在特会

在特会は差別のハードルを下げた。そして社会は無自覚にそれを飛び越え、憎悪の連鎖を広げている。もはや在特会など必要としない。つまりそれは、存在感を失くしつつある在特会に代わり、社会そのものが"在特会化"したということだろう。

私が単行本を執筆してからの3年半で何が変わったのか――。

もっとも大きな変化は「ヘイトスピーチ」なる言葉が一般化したことであろう。

2013年、「ヘイトスピーチ」はその年の新語・流行語大賞トップテンのひとつに選ばれた。憎悪と偏見を煽る「ヘイトスピーチ」が"流行"とされたことに苦々しい思いがないわけではなかったが、しかし、こうしたことによって世の中に認知されることも必要だと感じてはいる。

一方、いまだに「ヘイトスピーチ」を単なる不快語、罵倒語のことだと思いこんでいる向きも多い。

在特会のメンバーなどが差別デモに反対する人々へ向けて、「俺たちへのヘイトスピーチをやめろ!」と怒鳴り散らす光景は珍しいものではない。在特会を批判する私に対しても「安田のヘイトスピーチを許すな」といった批判は数多く寄せられる。

講演先の会場周辺で「安田こそがヘイトスピーチを発している」といった内容のビラをまかれたこともある。

また、沖縄では「ヘイトスピーチ反対」をスローガンとして、辺野古新基地建設の"推進運動"を展開する地元ネトウヨまで現れた。

彼らは「チーム沖縄」を名乗り、辺野古新基地建設の現場に集団で出向いては「米軍、米兵に対するヘイトスピーチをやめろ!」と基地反対派を攻撃する。つまり、基地反対運動こそが「ヘイト」に基づいたものだという主張である。

メンバーの一部は在特会とも関係が深く、那覇でおこなわれた私の講演にも顔を見せ、会場から不規則発言を連発した挙げ句、「オマエ(私のこと)こそヘイトそのものだ」と捨て台詞を吐いて出ていった。

「ヘイトスピーチ」とは、人種、国籍、民族、性などのマイノリティに対して向けられる差別的な攻撃を指す。言うまでもなく、抗弁不可能な属性への差別攻撃であり、しかもそれは社会的力関係を利用して発せられるものだ。