そのシーズン終盤の試合中に左手首を骨折。相手にマークされる中心選手だった五郎丸は、負傷の事実を部内の仲間にもほとんど知らせず、極秘で手術。優勝まで残り試合に出続けた。
「ワセダは、負けてはいけない」
学生時代、そう言い続けた五郎丸は、プライドが感じられない後輩の姿が、歯がゆくて仕方がなかったのだ。五郎丸は2008年3月に卒業。翌'09年1月、15度目の大学日本一に輝いて以降、早大は優勝から遠ざかっている。
今季で就任4年目の後藤禎和監督は帝京大戦後、がっくりと肩を落とした。
「勝つつもりで準備はしていたので、あの点差はショックですし、創部以来最大の危機だと思っています。
スコアがこうなったからではなく、今の上級生が入学したときから、他校の選手と比べて力が劣っていたので、最悪の想定はしてきた。現場を預かる監督は、この中で勝つ道を見つけなければいけないし、それがワセダです」
戦力が劣っても毎年勝つ道を探す工夫が、試合前は「絶対不利」と予想された戦いを覆す奇跡的な勝利も生み出してきた。しかし、現在ではそれがまったく叶わないほど、深刻な低迷に陥っている。
ワセダブランドに甘えている
かつて1990年代にも低迷していた早大だが、'01年に清宮克幸(現・ヤマハ発動機監督)が着任したことで流れが変わっていった。'06~'09年は清宮の跡を継いだ中竹竜二(現・日本ラグビー協会コーチングディレクター)が率い、清宮、中竹時代の9年間で5度の大学日本一に輝く。まさに黄金期を迎えていた。早大ラグビー部OBが明かす。
「清宮さんは、社会人トップのサントリーでプレーした経験を生かし、勝つための明確な方向性、理論を学生に提示し、早大を勝てるチームに変えた。さらに一大学の部でありながら、アディダスと提携する、という当時の常識破りを敢行した。部員にハイクオリティの用具を提供してもらうことで、有望な高校生に、『ワセダでプレーがしたい』と思わせる魅力も作り出しました。
当時、大学の練習場は大半の学校が土でしたが、大学の協力で芝生のグラウンドを整備し、社会人リーグのトップレベルを経験したOBが、フルタイムで指導する体制を整えた。こうした画期的手法で、勝つチームの好循環が生まれたのです。
清宮さんの跡を引き継いだ中竹さんも、清宮さんの『遺産』にあぐらをかくことなく、有望な高校生選手の獲得に奔走した。彼ら二人に共通していたのは、企業にも自ら頭を下げ、スポンサーを募ったこと。そうやって集めたおカネを、部費に回していたのです」
しかしそんなひたむきさに、陰りが見えてきているという。ラグビーを長年取材しているスポーツライターが明かす。