2015.11.14

「江戸のアヴァンギャルド」を見よ!~奇想の天才・伊藤若冲はいかにして再発見されたのか

辻惟雄『若冲』
辻 惟雄

「江戸のアヴァンギャルド」たちが次々と

下手な油絵に熱中し、美術雑誌を友としていた当時の私の憧れは、当然、西洋の20世紀絵画にあった。諸般の事情で西洋を断念し、日本の近世を選んだのだが、狩野派や琳派、浮世絵、南画などと縦割りにされた当時の江戸時代の絵画史はどうも魅力がない。私はぼんやりと考えていた。

アヴァンギャルドの絵画と、当時まだ、封建制の遺物として低く扱われていた江戸時代の絵画との間に、繋がりがありはしないか。杉全氏のように、それを予感する人もいる。そのことをもっと確かめたい。

私の目の前には、予想外の作品とその作者の奇矯な生涯が次々と現れた。大学から上野の美術研究所に移ると、その機会はいっそう増える。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、歌川国芳たち・・・。

「美術手帖」の編集者、森清涼子さんは、かれらを「江戸のアヴァンギャルド」と名付けて連載してはどうかと勧めてくださった。それが『奇想の系譜』という本にまとめられたのが、1970年の春、私が37歳のときである。

この中の一人、若冲を知ったのは、先述のように杉全氏の文によってだった。作品を見たのは、アメリカ人ジョウ・プライス氏が日本の画商から手に入れた数点の彩色花鳥画が始めである。

宮内庁「動植綵絵」をじかに見ることができたのは、その年の夏だった。つまり『奇想の系譜』を書いたとき、私は「動植綵絵」をまだ見ていなかったのである。見たような文章をどうして書けたか、不思議である。

『若冲』はその4年後に出たのだが、この出版が実現するためには2つの事柄が幸いした。一つには、1971年、東京国立博物館で、若冲の特別展観が行われたことである。この展覧会を担当したのは、当時館員となって間もないころの小林忠氏だった。プライス氏と私とが、若冲展をぜひ、とこの若き学芸員に発破を掛けたという。

それはさておき、「動植綵絵」30幅の戦後初公開を含めたこの本格的な展覧会が『若冲』の実際の生みの親となっていることを思い起こすと、氏に感謝あるのみである。また、「動植綵絵」30幅の掲載許可を得るためには、侍従職市川惣吉氏の格別な配慮も不可欠だった。

その後、2000年の京都国立博物館における若冲展が、若冲ブームの発火点になったことは前述の通りである。火がつくまでに、相当時間がかかったものだ。

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