江戸時代は誰もが、60キロの米俵をヒョイと持ち運んでいた!~なぜ私たちは「身体」を見失ったのか?

独占・最強インタビュー(3)
光岡英稔, 尹雄大

−−精神がわからない。おまけに足腰が、つまりは体も消えていっているわけです。社会に適応すぎた結果、個の生命体としてはどんどん弱くなっています。

便利で体の消えていく社会ではあっても、それも多様な自然界の変化のひとつとして見たとき、生き残るための強さの獲得になるかもしれません。

暑くて乾燥した砂漠の環境に強い人が、雪国でも同様にタフかというとそうではない。オールマイティの強さはないわけです。

しかし、同時に様々な環境に適応してきて、できるのが人間です。自然に近い循環型社会と現代文明の先端である便利なネット社会。生きていく上での難易度はどちらが高いかわかりません。

前者のような生活がたいへんなのは確かです。ただ、そういう暮らしを支える能力は人類のベースにあるし、人間の歴史では長らくそれが「普通」でした。しかしながら、いまの社会で、まして東京でそれを「普通」というのはかなり難しい。

−−都市では、体に即して身の程を知るというのは困難でしょうか。

武術を学ぶ意味があるとしたら、私たちが普段「体(からだ)」と思っているものは、概念上のやりとりの中でのイメージされた「身体(からだ)」でしかない。それに気づくことだと思います。

気をつけたいのは、現代人の身体観が「悪い」といった単純な話ではないことです。イメージ上の身体も、武術の型が見せてくれる古の体も、どちらもあります。ここをすみ分けておかないと稽古ができません。

つまり、「ひとりの人間だから体はひとつ」というのは、物理的に体を捉えすぎています。それは概念上の身体(corps)です。

−−体を表現するのに「躰」や「體」といった様々な漢字による語があります。これも先人たちが体はひとつではなく、多様だと知っていたからこそでしょうね。

体にはいくつも層、位、所があって多様性があります。無論、人によって体の各層や位、所は観えたり観えなかったりします。観えてくると体はいくつもあり、多様な体が環境によって様々な身へと変わって行けると考えたほうがいい。

たとえば私が日本語を話すときと英語を話すときでは、同じ私でありつつ違う身体観がそこに現れてきます。私自身は変わらないけれど、感じていることや思考していることが、英語という型ないし環境を用いることで、日本語で思考していた時とは異なる身体観が自分が内側から現れてきます。その、多様性ある体を通じて日本語を身につけたり、英語を身につけたり、中国武術や中国語を身につけたりします。

現代の子供たちがゲームを懸命にしているのを見てて思うのは、今から「概念の身体」を構築する術を身に付けておかないと、これからの時代を生きるのが難しくなる。そのことを彼らは本能的にわかっているのではないか、ということです。自覚があってかはわかりませんが、概念的な身体でなければ完全に管理された社会では生きにくくなることを直感的に知っているんだと思います。

そのとき大切になのは、イメージと実際とを使い分け、わきまえておくことです。状況に合わせて自然と言語を切り替えられるのが人間の多様性です。概念上の身体も理解しておき、それはそれとして概念の世界で用いて、これからの社会で生きて行くためには、その術を鍛えておく。

一方で、古から伝わる體(からだ)や躰(からだ)といった身体観がベースにあること知っておく必要もあります。それがあって人類は生き残ってきたわけですから。

とはいえ、時代が進むに連れて古の身体観を残すことは難しくなっています。すでに複雑で高度に管理された社会になっていますが、だからこそ古からの教えを見なおし、新たな時代には「新たな身体観」と「新たなすみ分け方法」が発見される必要があるのではないでしょうか。

(了)

インタビュー構成:尹 雄大(ユン ウンデ)
1970年、神戸生まれ。テレビ番組制作会社、出版社を経てライターに。インタビュー原稿やルポルタージュを主に手がける。10代で陽明学の「知行合一」の考えに触れ、心と体の一致をさぐるために柔道や空手、キックボクシングを始める。1999年、武術研究家の甲野善紀氏に出会い、松聲館に入門。2003年、光岡英稔氏に出会い、韓氏意拳を学び始める。主な著書に『FLOW 韓氏意拳の哲学』(冬弓舎)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)などがある。