ヘイトスピーカーには「覚悟」がない!想像力で「言葉の暴力」を防ごう

久田 将義 プロフィール

「暴力が存在する」という想像力が必要

まず、言葉の暴力に関してですが、実は暴力を論じる事は同時に言論の自由の大切さを論じる事にほかならないのです。どういうことか。こういう考え方をしてみました。

商業出版物に誰かの批判を書いたとします。それは言論の自由の範疇に入ります。どんな激烈な批判も書いて良いはずです。それが憲法で保障されている表現の自由・言論の自由ですから。しかし、その代わりどんな内容の反論を書かれても仕方ありません。

つまり言論の自由とは「何を書いても良い。しかし何を反論されても良い」というのが、極論かも知れませんが僕の持論です。何を書いても良い、何を言っても良い。その反面、「言論には言論で」というルールから逸脱するケースもあるのではないか、という想像力や覚悟を持って発言すべきだと考えています。

「してはならない事」を実行に移す人間もいます。

あるサイトにおいて無記名で特定の個人を、罵倒したとします。これは言論の自由でしょうか。僕は、それさえも言論の自由ではないかと考えています。しかし、大きなしっぺ返しを「覚悟」しなければなりません。具体的には名誉毀損裁判等が考えられます。それを覚悟しているのなら、百歩譲ったとして結構でしょう。しかし大部分の人はそのような覚悟を持っているとは思えないのです。

ノリと勢いでやっているケースがほとんどで、例えばヘイトスピーチを言論の自由を盾にして肯定している人間がいたらそれは後付けではないでしょうか。罵倒は批判の範疇に入るかも知れません。罵倒「芸」にまで昇華させている文筆家やタレントもいます。読んでみて、気持ちの良い罵倒もあります。

罵倒とヘイトスピーチは紙一重ですが、ヘイトスピーカーに覚悟が出来ているのか、推察すると僕は「ない」と思っています。

この考察をもう一歩、先に進めてみます。僕は、長年ゴシップ誌の編集長を務めてきました。「内容が下品だ」「現代のカストリ誌」といった評価も受けました。人が思う所ですから、それに関しては全く異論はありません。出版物は、店頭に置かれた時点で公共性を帯び、国民の財産になるからです。発表物に関してはどのような批評・批判をしても自由です。

僕が編集長を務めていた雑誌は、誌面の内容が攻撃的だったため、政治家や企業から抗議を受けました。政治家の場合、議員会館に呼びつけられて怒鳴られて帰社するというパターンもあります。が、彼らとの争い事はたいてい、法廷に持ちこまれるケースが多かったように記憶しています。

しかし「裁判がどうした。関係ないぞ」という人間もいます。