「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男
〜カリスマ・プロデューサーの破天荒な一生

【特別公開】牧村康正+山田哲久『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男』
牧村康正, 山田哲久

その一つの要因と考えられるのは父の重圧である。本人が各種雑誌や関係者に語った少年期の思い出は重苦しい。

弘文は小学校に上がると、父から事あるごとに「東大を目指せ」と厳命を受けていた。親類の男子は、ほとんどが帝大(東大)を出ている。西崎家の長男として東大入学が必須事項と思い込まされていた。沢村景子の記憶でも「大変厳しい父親」だったそうだから、弘文が受けていた圧迫感は相当強いものだったに違いない。

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3)なぜ「宇宙戦艦ヤマト」は、いまなお愛され続けているのか?~あの頃ぼくらも徹夜で並んだ

確かに西崎は、こと「ヤマト」については日本一のファンだったと言っていいだろう。ファンとしての共有意識がなければマニアは心を開いてくれない。このマニア気質が良くも悪しくも西崎の持ち味である。

「ヤマト」を一番理解しているのは自分だと信じ、あくまでも自分の感性を押し通した。全権を握るプロデューサーが確信的なファンであることによって「ヤマト」は無限の推進力を与えられたのである。

(「ヤマト」の映画公開を前に)九段のオフィス・アカデミーには連日ファンが押しかけるようになっていた。まだ簡単なプレスシートしか用意できず、公開日もおよそのことしか伝えられなかったが、近くのホテルグランドパレスでお茶やケーキを振るまうなど手厚くもてなしている。

西崎がファンクラブに依頼した宣伝作戦はポスター作戦とリクエスト作戦の二つだった。

ファンにポスターを渡して目立つ場所に貼らせること。そしてテレビ・ラジオ番組にリクエストハガキを出して「ヤマト」の主題歌とエンディングテーマ「真赤なスカーフ」をかけさせることである。

さらに読者の声として出版社にハガキを出し、若者向け情報誌に「ヤマト」の特集記事を掲載させることも作戦に含まれている。その対価として、ファンは提供された二枚のポスターのうち一枚を自分のものにすることができ、公開終了後にセル画(アニメ制作に使ったセルロイドの原画)などの資料を提供される約束だった。

マニア心を知りつくしたこの作戦は画期的な成果を上げる。公開後、西崎が語った言葉によれば、オフィス・アカデミーがつかんでいたファンクラブの数は541団体、会員数は6万人だった(「週刊文春」1977・9・8号)。その後、最盛期には会員数が15万人を越えたともいわれる。

(つづきは本書でお楽しみください)

目 次

序 章 いつ消されてもおかしくない男
第一章 アニメ村の一匹狼
第二章 芝居とジャズと歌謡ショー
第三章 ヤマトは一日にして成らず
第四章 栄光は我にあり
第五章 勝利者のジレンマ
第六章 砂上のビッグ・カンパニー
第七章 破滅へのカウントダウン
第八章 獄中戦記
第九章 復活する魂
終 章 さらば、ニシザキ