タモリはいかにしてタモリになったのか?

故郷・福岡を歩いてわかったこと
近藤 正高 プロフィール

「博多」と「福岡」のちがい

福岡の街は「博多」と「福岡」に分けられる。地元の人に言わせると、タモリの生まれ育った地域は「博多」ではなく、「福岡」だという。

これに対してタモリとの共演も多いコメディアン・俳優の小松政夫は、同じく福岡市出身ながら生粋の「博多っ子」である。小松いわく、「博多」とは当地を代表する祭りの一つ、博多どんたくが家から見えるところを指すのであって、タモリの生まれ育った福岡市南区はあくまで「福岡」なのだ(『タモリ読本』洋泉社MOOK)。

歴史的には博多のほうがはるかに古い。

平安初期に完成した歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平宝字3759)年324日のくだりには、《博多の大津及び壱岐や対馬など要害の地に一百隻以上の船を置いて非常の場合に備える定めになっていますが、現在は使用できる船がなく、すべていざという場合のまにあいません》との大宰府の進言がとりあげられており(直木孝次郎ほか訳注『続日本紀3東洋文庫)、これが博多の地名が文献に登場した最初の例とされる。

『続日本紀』に記されたとおり、博多は古代より軍事の要衝であり、また遣隋使や遣唐使が出発するなど交通の拠点でもあった。15世紀に守護大名の大内氏が明との貿易を推進して以降は、貿易港・商業地として発展していく。

これに対して、福岡の地名は、江戸開府前後、17世紀初めに筑前藩主となった黒田氏が、当地に築いた城に同氏発祥の地・備前国邑久(おく)郡福岡(岡山県)の名をとって「福岡城」とつけたことに由来する。

以後、那珂川を挟んで西側の城下町は武士の町・福岡となり、東側の町人の町・博多と対峙するようになった。博多っ子のあいだでは、江戸時代の町人の武士への対抗心がいまなお息づき、福岡との違いがことさらに強調されるきらいがある。

『ブラタモリ』の2015年919日放送分では、博多誕生の秘密を高低差から解き明かすなかで、博多と福岡の境目にいまも残る痕跡も紹介された。

中洲産業大学・森田一義助教授

なお、博多と福岡のあいだに位置する形で九州随一の歓楽街・中洲がある。タモリの初期のレパートリーであるデタラメな講義をする助教授は、「中洲産業大学」なる架空の大学に勤めているという設定だったが、その名はもちろん故郷のこの地名からとられている。

那珂川の河口部に位置する中洲は、明治時代に入って企業や公共施設があいついで建設され、もともとはビジネス街として発展した。それが明治末の1910年の福博電気軌道(のちの西鉄市内線)の敷設を機に、ビジネス街の機能は現在の天神地区へと移っていく。

前後して1897年には中洲検番が開設され、ここから中洲は芸者屋・待合・料理店の三業種の営業が許可された「三業地」となる。江戸時代以前からの遊里ではなく、歓楽街としては比較的歴史は浅いのだ。

詳細については拙著『タモリと戦後ニッポン』でも触れているが、のち太平洋戦争の開戦前夜に満洲(現・中国東北部)から一族で引き揚げてきたタモリの祖父は、中洲検番に「趣味で」勤め、芸者の手配をしていたという。