なぜ小林秀雄や吉本隆明や丸山眞男の言葉は「光」を放たなくなったのか
東京の失効・地方の荒廃
さらに奥
~学術文庫版『廣松渉─近代の超克』に寄せて~
文/小林敏明(ライプツィヒ大学教授)
たんなる地方の「さらに奥」から来た者たち
最近自分のやってきた仕事を振り返って、我ながら不思議に思っていることがある。
このほど刊行した「再発見 日本の哲学」シリーズの講談社学術文庫版『廣松渉―近代の超克』のなかでも少し触れたことだが、自分が研究の対象としたり、熱心に読んできた作家たち、具体的には西田幾多郎、廣松渉、大江健三郎、中上健次といった人たちにはある際立った地理的共通性がある。
彼らが地方出身者であることはよく知られているが、この地方性、さらに細かな特徴があることに気づいた。
西田は地方の中心都市金沢からさらに奥に入った宇ノ気、廣松は柳川のさらに奥の蒲池村、大江は松山のさらに奥の大瀬村、中上はそれ自体が交通上孤島に置かれた新宮である。ちなみに、私自身の出身は典型的な地方都市中津川のさらに奥の苗木という村である。いずれも、たんなる地方ではなくて、「さらに奥」なのである。
これらの人間にとって最初の「街」というのは東京をはじめとする全国区の大都市ではなく、まず目前のちょっと大きめの地方都市なのだ。そして高校進学とともにその目前での「都市体験」がやってくる。
だから東京をはじめとする全国区での都市体験は、この地方都市における擬似体験を経た後にくるという、都市の二段階体験があるわけだが、これはたんなる偶然なのだろうか、と近頃考えるようになった。
私は初めからそういう条件を意図してさきに挙げた人たちを読んだり研究してきたわけではない。ただ、その都度の関心の赴くままにやってきただけである。いわば私自身の無意識が引き寄せたものである。
そしてその結果として自分の条件までがそれにはまることを事後的に「発見」して驚いているのである。
東京出身の思想家たちとの見事な対極
これと並行する事柄も新たな「発見」であった。私はさきの人たちを取り上げて論じたりする場合、欧米の文献を含め、いろいろな批評家や思想家たちを合わせ鏡のようにして参考にしてきた。
私が意識して参考にしてきた日本の批評家とは、おもに小林秀雄や吉本隆明といった人たちである。今とりかかっている漱石に関していえば、江藤淳である。もうひとり挙げれば、私の日本近代思想史研究に関して丸山眞男の存在を無視することはできない。
ここで再び気づくことは、小林、吉本、江藤、丸山、いずれも東京出身者であるということだ(ちなみに、丸山は大阪生まれだが、育ちはほぼ東京である)。
彼らに共通するもの、それは洒脱で歯切れのいい口調と鋭敏な批評精神である。これをさきの人たちの文体や思考内容と比較してみれば、体質の相違は一目瞭然であろう。