昭和が終わり、狂乱バブルはピークを迎えた……日本の分水嶺「1989年の呪い」を語ろう

田原総一朗×保阪正康×後藤正治
週刊現代 プロフィール

海外では「ベルリンの壁」崩壊

田原 それにしても、昭和天皇の崩御、そして昭和が終わった'89年の持つ意味は大きい。

私は'87年から『朝まで生テレビ!』をやっているんですが、'88年9月に昭和天皇が倒れて、いよいよ危ないという話になった。そこでぜひ番組で天皇制について取り上げたいと思ったんですが、当時のテレビは自粛一色。テレ朝(当時は全国朝日放送)の編成局長だった小田久榮門もOKが出せなかった。

保阪 そうでしょうね。

田原 そこで考えた。『朝生』の放送時間は深夜1時から朝4時で、その時間、小田さんは眠っていてチェックはできない。そこで、新聞告知では『オリンピックと日本人』というタイトルを打ったけれども、オリンピックの話は冒頭15分間だけで、そこから大島渚や野坂昭如に参加してもらって、天皇制の議論をしたんです。そしたら視聴率が普段の3倍くらいになった。翌日、小田さんのところに謝りに行ったら、「大晦日もまたやってください」と(笑)。彼も最初から分かっていてダマされたふりをしていたんです。

後藤 そのあと各方面からの抗議で大変だったんじゃないですか。

田原 いや、それが全然なかった。番組には、'93年に朝日新聞社内で自殺した右翼論客の野村秋介も呼んでいたんですよ。

その回には、舛添要一、猪瀬直樹という、のちの都知事二人も出ていて、表向きの話題はオリンピックだった。

後藤 不思議な縁ですね。

保阪 昭和が終わると、日本人の意識も変わった。たとえば、昭和は元号で数える人が多いけれども、平成以降のことには西暦を使う人が増えましたね。

後藤 そうした変化の一方で、日本人が'89年に、はたして昭和をちゃんと総括したかと言えば、大いに疑問です。

田原 していないですよ。日本人というのは、「総括」するのが下手なんだ。

保阪 私は'88年から'89年にかけての時期、昭和天皇や、その弟宮である秩父宮の評伝を書こうと考えて、皇族や近臣たちを取材していたんです。その中で、秩父宮妃にインタビューする機会を得た。秩父宮は英国留学経験もあって、日英協会の総裁も務めていた。そこで私はこう尋ねたんです。

「秩父宮殿下は、昭和16年12月8日(真珠湾攻撃の日)には、相当お心を痛められたのではないでしょうか」

すると妃殿下はしばらく黙ってから、こう答えたんですね。「あの年は雨の多い年でしたね」と。

後藤 雨、ですか。

保阪 私は宮内庁に確認したんです。妃殿下は雨とおっしゃったけれども、あれは私が政治の話をしたから不愉快だったのか、それとも開戦時の複雑な心境を雨に仮託されたのか、と。すると宮内庁は、「それは保阪さんの責任で、どのようにお書きになられても結構です」。なるほど、皇族というのはこういう話法を使うのかと思いましたね。

田原 はっきりとは言わないんだ。