いとうせいこう×高橋源一郎
「歴史的な出来事」を前に「文学」は何ができるか

"あの日"の後に書くことについて 1
いとうせいこう, 高橋源一郎

批評的な視点は生かさず殺さず

高橋:そこは本当に見事に書かれていると思いました。いとうさんが、15年前のいとうさんとは違う新しいいとうせいこうで、でも本質的なところは変わっていなくて、ある意味15年止まっていたわけではなくて、このバージョンを準備していたのか、というふうに僕は読みました。

いとうさんは今スランプが終わってある意味多作な時期に入っていますよね。僕もスランプが終わった後、小説を4つ同時連載したりしましたが。

いとう:まさに、今「群像」で連載している「我々の恋愛」って小説は、20年も前にアイディアがあったのにちっとも転がらなかったもので。2001年に日本の山梨で20世紀の恋愛を振り返る15ヵ国会議っていうのが開かれていて、世界中の恋愛学者が集まって討議した結果、この恋愛が20世紀を代表すると決まりました、というふうに始まって、研究員たちが次から次へと一つの恋愛について調査・報告する。もちろん全部嘘なんですけどね。大したことは起こらないんですが、物語ではなく色んな種類の語りの魅力だけで読ませるような長編を書きたくて。

しかも同時に、いつまた「あれ」が来るかわからないから、早くやっておかなきゃっていう気持ちがある。

高橋:いつまたスランプが来るかわからないから(笑)。スランプがない作家もいると思いますが、僕は作家にとって、スランプがあることはある意味で正しいことだと思います。つまりなぜスランプになるかというと、「何で書かないといけないのか」と自分に問いかけるからなんですね。一言でいうと批評的な視点のせいです。

いとう:そうなんです。

高橋:それが書く意欲に勝っちゃうわけですね。でも、それがなくなったら、逆に小説が馬鹿なものになっちゃう。こいつは時々出てくるわけなんだけど、彼はある意味で僕たち小説家の増長というか、暴走を止めるために出てきて、かわいい顔して「マジでやっているの?」っていう存在です。それは僕、結構大事にしたいと思うんです。あまり会いたくないけどね(笑)。できたらしばらくは会いたくない。

いとう:会いたくないけど、確かにスランプのそいつが、うっすらまだどっかにいて、多作になって書いているときに、「ユーモア足りないんじゃない」とか言っているんですよ。

高橋:いるよね。

いとう:うん。「なんでそんなまたまじめに書いているの」って。まじめに書けば書くほどまた、なんかつまらなくなるというか、なんていうのかな、もっと多意味に書かないとだめなんじゃないのとかって言っているのはこいつなんですよね。だから、こいつを遠ざけてもだめだし近寄せてもだめだし、微妙なところの間合いで、書く。

それは僕にとっては少なくとも3月11日の後に書くことを考えたとき、一旦これと向き合ったからこれで終わりというわけじゃないし、じゃあ今後自分は小説をどうするのかっていうことですけど、少なくともそこを通り抜けなかったら、わからなかったことがたくさんあって。

しかも、たとえば関東大震災の後の新感覚派というのは、こういう感覚はどのくらいあったのかなとか、朝鮮人大虐殺についてどう向き合ったか、これは世界文学として、どうなの、とかいうことを、やっぱりこいつが考えている。

高橋:だから、こいつはうるさいけど、必須の存在だと思います。なので、生かさず殺さず(笑)、という距離で置いておきたいですね。

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*日本近代文学館主宰「夏の文学教室」2015年7月25日の対談を元に構成

いとうせいこう
1961年生まれ。作家、クリエイター。早稲田大学法学部卒業後、出版社の編集を経て、音楽や舞台、テレビなどの分野でも活躍。1988年『ノーライフキング』で作家デビュー。1999年『ボタニカル・ライフ』で第15回講談社エッセイ賞、2013年『想像ラジオ』で第35回野間文芸新人賞を受賞。他の著書に『存在しない小説』、『鼻に挟み撃ち 他三編』など。現在、文芸誌「群像」に「我々の恋愛」を連載中。

高橋源一郎
1951年生まれ。作家、明治学院大学国際学部教授。横浜国立大学経済学部中退。1981年『さようなら、ギャングたち』で第4回群像新人長編小説賞優秀作、1988年『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞、2002年『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞、2012年『さよならクリストファー・ロビン』で第48回谷崎潤一郎賞を受賞。朝日新聞の「論壇時評」をまとめた新刊『ぼくらの民主主義なんだぜ』が話題を集めている。