いとうせいこう×高橋源一郎
「歴史的な出来事」を前に「文学」は何ができるか

"あの日"の後に書くことについて 1
いとうせいこう, 高橋源一郎

高橋:ただ単に、スランプを脱して書いた以上に、極端にひらかれたというか、人々に向けて書いたというのは、なんでやねん(笑)って。

いとう:まあ、あれは特異な例で、その前にちょっとだけ、3月11日のことがあってすぐに、すごく短いものを急に書けちゃったんですね。それは佐々木中っていう男にたきつけられて、一緒に連作みたいなのをしようと。

3.11の後、想像力が危機になっている、テレビの画面を見て自分もウツみたいになっちゃうし、明日がないんじゃないかとかみんなが思っていたときに、何か少なくとも創造できるものはないだろうか、それが一つの小説だろうっていうことで、そしたら5枚くらいのものが書けて、次に10枚のものが書けるようになったんですね。それはすごくむしろ、いかにも純文学の短編らしい、それこそ意味に回収されない小説。

高橋:わかりやすくはないものですね。

いとう:なかったですね。それを書いている途中に、被災地へ小説とは全然関係ない仲間と行ってたら、そこの土地の人たちが、あの杉の上に人がいたっていう話を盛んにしてくる。その話に取りつかれちゃったっていうことですね。

その人のことを書かないといけない、この人のことを抜きに、この死者のことを抜きにして、僕がほかのテーマで物を今後書いていくわけにはいかない、とにかくここを通過しておかなければって。自分は今のこの時代に、トライしてみる以外になかったっていうことだと思うんです。

高橋:それは直観的なものだった?

いとう:そうですね。じゃあほかに何をテーマにするか。だから高橋さんが、3.11の後に『恋する原発』を書いたようなものだと思う。やっぱりこのことを措いて、小説家が何か違うことだけ書いていていいのか。放射能がこんなに出ている、あれだけ多くの死者が出たっていうことを取り扱わないでいいのかと考えているときに、その死者の話を聞いてしまって、死者がしゃべっているっていう気持ちにとりつかれて。それをどういうふうに書くか。

実は『想像ラジオ』ってものすごくメタフィクションになっていて、どこまでが虚構で、どこまでがこっち側か、二つの現実が食い合っている。そういう技術を駆使しながら、しかしその技術が一切目立たないような小説を書くということは、自分の文学的な野心みたいなものとも合っていたんですね。メタフィクションって、大体「実験していますよ」っていうのが先に立っていて、読んで面白かったことがほとんどない。でもこれだったらストレートな小説としても読めるはずだと思った。

高橋:なにより面白い小説を書くっていうことですね。

いとう:そうですね。