美しいものが美しいという事実。
人間の眼と手は素晴らしい

洲之内徹Vol.7

vol.6はこちらをご覧ください。

 洋画というジャンルに私が興味を持ち、足を踏み入れていったのは、洲之内徹という人物の影響が大きい、という話はこれまでも何度かした。画商にして作家、文筆家であるけれど、そういう規矩を超えた存在感を洲之内はもっている。

 超えた、という言葉を使うと、何やら巨大な存在のようだが、そうではない。洲之内はしたたかな強さをもっているが、巨きな人間ではなかった。白洲正子や小林秀雄の賛辞は、彼に大きな自信を与えはしただろうが、洲之内徹は、小林や白洲がもっていたような分厚い、豊穣な経験やバックボーンをもっていなかった。

 二十代と三十代の前半を非合法活動による投獄と、戦地での情報活動に費やした洲之内は、暴力と戦乱に曝され続けた。もちろん、そうした生活も「経験」と呼ぶ事はできるだろう。けれども、そのような経験から何らかの糧を叡智を美学を搾りだすのは、大変、難しい事だったろう。

美とは何か。美を語る資格はあるか

 大陸から帰還してから、画廊の経営をはじめるまで十五年の時間が必要だった。

 その暗闘を潜りぬけて、洲之内徹がかくも多くの画家を見いだし、彼等をまったく独特の流儀で紹介し、世間にその魅力を伝え、今もその著書は読まれ続けている、その事に私は感動する。しかもその感動は、今も、彼が見つけた作品により具体的に象られている。

 私の友人で、松田正平の作品を多数、所有している人がいる。山形で医院を営んでいる人だが、彼は洲之内徹により、松田を識り、松田の作品を集める事を、人生の楽しみにしている。何しろ手放さないと渋った画廊を口説いて、松田が洲之内をモデルに描いた『フルートを吹く男』を入手したというのだから、病膏肓に入るの最たるものだろう。

 洲之内徹について考える事は、また、美の正体を望見する事でもある。この連載でも触れたが、洲之内は中国時代の体験-かなり凄惨な、あるいはグロテスクな体験-を小説にしている。

「その後、世古はなんどもそのようにして女を犯したが、最初のその女の躰のうちに、彼はもう長い間忘れていた、あの兵隊相手の慰安婦たちの手摺れた肉体にはない、ある感覚を探りだした。その感覚は、その瞬間に、唐突に彼に甦った。女とはこういうものだった。恐怖と敵意に硬ばり、屍体のように彼の下に投げ出されているが、やはりこの肉体は新鮮であった。

 酷使された慰安婦たちの肉体を媒体にして、排泄作用以上にたいして意味のない行為を繰り返すことに馴れ、いつのまにか鈍らされ、眠りこまされていた本物の官能の火が、突然、彼のうちに呼び醒まされたこの瞬間を、世古は自分のために祝福したが、やがてそれは彼に後悔を残した。

 警備地で抱く女たちの太腿のあいだに自分を押しつけ、めりこませながら、満足よりも不満ばかりが浮き上がってくる。そして、焦燥は、枯草の匂いのしみこんだ、ひきしまった肉体への渇きを募らせた。(中略)女を凌辱するのになにをこだわることがあろう。人間そのものが気紛れに、くだらなく浪費されているときに、その中のひとりが、他のひとりを辱めるとか、辱められるとかいうことに果して意味があるだろうか」(「砂」)

 このテキストは、小説である。だから、ここに記されている行為、意志、思惟を、直接に洲之内自身に結びつけることはできないだろう。とはいえ、そうした事態を彼は間近に見たろうし、ここに書かれている事と近い事をなしたのかもしれない。実際、画廊を訪れた画家たちにそういう話をしたという証言もある。

 だが、何よりも重要なのは「人間そのものが気紛れに、くだらなく浪費されているときに、その中のひとりが、他のひとりを辱めるとか、辱められるとかいうことに果して意味があるだろうか」という問いである。このように語る、書く人間にとって、美とは何なのか。美を語る資格があるのか。そういう問いが容赦なく、洲之内の崇拝者、ファンを襲う事になるだろう。

「アウシュヴィッツの後で、叙情詩を作るのは野蛮である」というテオドール・アドルノの言葉は、大戦後の知識人を震撼させた。人間のシステマティックな大量殺害という事態を前にして、詩的なもの、審美的なものを追求すること、愛でる事は倫理的に許容できないという糾弾は、倫理と美は相容れるというヨーロッパの伝統的確信-真、善、美の鼎立-を激しく揺るがすものであった。

 その点で、洲之内徹の存在は、アドルノの提起した問いを、日本において、輸入品としてでなく、自前の問題として扱う事を可能にする、と、やや逆説的だが云えるかもしれない。

 洲之内は、昭和十八年頃、山西省太原の司令部に勤務していた時、現地に駐在した記者がもっていた画集をよく見せて貰ったという。彼が目当てにしていたのは、海老原喜之助の「ポアソニエール」だった。

「その『ポアソニエール』は一枚の、紙に印刷された複製でしかなかったが、それでも、こういう絵をひとりの人間の生きた手が創り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる。人間の眼、人間の手というものは、やはり素晴らしいものだと思わずにはいられない。

 他のことは何でも疑ってみることもできるが、美しいものが美しいという事実だけは疑いようがない。(中略)頭に魚を載せたこの美しい女が、周章てることはない、こんな偽りの時代はいつかは終る、そう囁きかけて、私を安心させてくれるのであった」(『絵のなかの散歩』)

 洲之内の言葉は、アドルノと対極にある。人間が「浪費され」ても、「美しいものが美しいという事実だけは疑いようがない」というのだから。美しいものを作る人間の手と眼は素晴らしい、と。

松田正平 松田の描いた絵。50代を過ぎて評価された遅咲きの画家だった。'04年、91歳で死去

 私の手元に、ある人から送られてきた、松田正平の絵がある。絵といっても、葉書の裏にボールペンでオコゼの絵を描いたものだ。洲之内の処に遊びに来た松田が戯れに描いたものだという。けれども、ボールペンであっても、やはりオコゼは松田のオコゼで、ユーモアを湛えつつ、きわめて美しいのだ。この、おそらくきわめて短時間に描かれた絵を見ると、やはり「人間の手」を信頼したくなってしまう。信頼してしまう。

 と、同時に、このように素晴らしいものは、いずれお返ししなければ、と少し思うのだ。

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