誰も本気で米国と戦争するなんて思ってなかった〜「壁新聞」が伝えた開戦間際の「日米友好」

【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』3
井上 寿一 プロフィール

選挙粛正運動

創刊間もない時期の『写真ニュース』が伝える国内状況の一つは、選挙粛正運動だった。たとえば1月10日号は、「選挙粛正」の文字の入った日の丸の旗を背にした牛塚(虎太郎)東京市長の正装姿の写真である。キャプションは言う。

「トーキー役者牛塚市長/『選挙粛正』の声も益々大きく成って来た現今先ず其の御手本は東京からとあって牛塚市長は九日午前十一時よりトーキー役者と成って『選挙粛正』の一巻を撮影した」

1月27日号は、日比谷松本楼に集まって「総選挙の対策決定につき種々協議する」「選挙粛正婦人聯合会」の協議の模様を報じている。「選べ人物、いかせ一票」の垂れ幕の下で吉岡弥生(東京女子医大創設者で女性の地位向上に努めた)の挨拶を聞く女性たちの姿は、すでに女性参政権が実現していたのかと錯覚させる。参政権が与えられていなかった女性たちも選挙粛正運動に参加していた。

2月7日号の見出しは「雪達磨で選挙粛正」である。半世紀ぶりの大雪に見舞われた帝都東京のあちらこちらで雪だるまが現われた。そのなかの一つは体に「センキョ粛正」の文字があった。「時節柄此の雪達磨は人目を引いた」。

2月17日号の写真は日比谷公会堂を埋め尽くした女性たちである。この日は「選挙粛正婦人の日」だった。写真壁新聞は「粛正は家庭から/選挙粛正は婦人の手でと、府と市が、主催」した大会の様子を伝えている。

選挙粛正婦人の日(同盟通信写真ニュース1936年2月17日)

選挙粛正運動とは、斎藤(実)・岡田(啓介)内閣期における内務省の主導による、選挙の不正を正す官制の社会運動のことを指す。選挙粛正運動は、国家による反政党運動との評価が一般的である。歴史的な評価もきびしい。たとえばある歴史家はつぎのように指摘する。

「選挙粛正運動は、政党の政治活動全般を抑制し、選挙民と政党との関係を弱め、政党の政策と国民の時局への不満との結合を防止することを目的にするようになった」(粟屋憲太郎『昭和の歴史 第6巻』)。

ところが同時代の評価はこれとは異なる。政治学者で東京帝国大学教授の蝋山政道は、高く評価する。

「選挙粛正運動は、今や一つの国民運動となろうとしている。これに就いて、正面から反対する人は無い。これを軽く見る人、白眼視する人、批判的に見る人、いろいろ警告を発する人、注文をする人はある。しかし、これを悪いと見る人の無いのは、この運動の究極の目的たるべき議会主義の振粛の必要と相俟って、この運動をして今や天下の輿論たらしめる根本理由である」(蝋山政道『議会・政党・選挙』)。

わずか8年間の二大政党による政党内閣の時代は、政治的な腐敗と不正な選挙の時代でもあった。その政党内閣が五・一五事件によって終わりを迎えたことに、国民の同情はなかった。そうだからといって国民が政党政治に見切りをつけたのではない。斎藤・岡田両「中間」内閣の時期に、二大政党制がもたらした政治的な腐敗と不正な選挙を選挙粛正運動によって是正し、そのさきに政党内閣の復活をめざす。これが国民の意思だった。

実際のところ、選挙粛正運動のさなかに実施された総選挙(1936〈昭和11〉年2月20日)の結果は、国家による選挙に対する政治介入にもかかわらず、第一党は民政党(205議席)であり、無産政党(社会大衆党)は、5から18議席へと大躍進した。国民が求めたのは、社会大衆党の協力を得て、民政党が主導する社会民主主義改革だった。

国民に対する政治的プロパガンダの「写真ニュース」ではあっても、事実は無視できない。2月24日号は、「無産陣に挙がる凱歌」の見出しで、東京五区の社会大衆党の加藤勘十が全国最高得票で当選したことを報じている。

加藤勘十の当選(同盟通信写真ニュース1936年2月24日号)

国民は選挙粛正運動への協力をとおして、腐敗、堕落した二大政党制に代わる、政党間連携による新しい政党政治の実現をめざしていた。