誰も知らない「モンペ」の謎〜なぜこれが女性の「国民服」になったのか?

【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』2
井上 寿一 プロフィール

女性の国民服

委員会の結論にもかかわらず、女性の国民服としてのモンペの普及は進まなかった。たとえば女学生の服装である。この節の冒頭で「大沼実業学校女子部」のモンペのような制服について言及した。委員会の主導する国民服運動に呼応して登場したのは、このようなモンペ型ではなかった。「女子報国服」と名づけられた新しい女学生の国民服は、一見、普通のセーラー服である。

どこがちがうのか。「スカートはプリーズ式が加味されて、運動や仕事にも差支えなく、スカートの裾の紐を絞るとモンペ式になって防空、防火作業等に自由に活動出来るようになって」いた。色はある女学校が紺色を要望した。しかし「国防色」の「鴬茶(うぐいすちゃ)」に統一すべきとの意見もあった。結局、色は従来の紺色と「国防色」の二色をそろえることになった(『東京朝日新聞』1938〈昭和13〉年11月9日)。

 

大衆消費社会を経験した日本では、戦時下といえども女性の服装を画一化することは容易ではなかった。『東京朝日新聞』の記事(1938年11月21日)は「非難されながら/断ち切れない愛着」との見出しで報じている。

「若鮎のように袂をひらめかし乍ら街頭を闊歩する若い女性の和服姿は成程美しい。……それだけに和服改良論者が何と云ってもなかなか捨て切れない愛着を覚えるのも無理のない処でしょう」。

しかし和服の改良は避けがたくなっていた。この記事は「考現学」者として著名な早稲田大学の今和次郎教授の改良和服案を紹介している。上着は「筒袖式」のジャケット、下は「着物スカート」(帯の代わりにスカートに取り付けたバンドをバックルまたはボタンで止める)で、これならば「活動にも便利」だった。

改良和服案(『東京朝日新聞』1938年11月21日)

このような折衷案は生ぬるい。いっそ洋服に、という考え方もあった。『東京朝日新聞』(1938年11月26日)は、つぎのように説明している。

「事変を契機として女性の活動の分野が拡大されればされる程女の働き着の必要も痛感されるので、和服よりは活動に便利な洋服、洋服の中でも動的なスーツに大勢の赴くのは無理のない事だと云う事が分りましょう」。

同記事は、スーツ愛用者としての市川房枝に語らせている。「スーツなら暑さ寒さの調節も下のブラウスで出来ますから重宝です、女の働き着としては今の処、スーツがいいのではないでしょうか」。

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