「事変不拡大」を模索した近衛文麿は、なぜ「日中戦争の泥沼化」を止められなかったのか

【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』1
井上 寿一 プロフィール

ラジオ辞令

近衛のつぎから平沼(騏一郎)、阿部(信行)、米内(光政)の三つの短命内閣がつづいた。日中戦争の解決の目途は立たなかった。総辞職後、2年も経たないうちに、ふたたび近衛に組閣の機会が巡ってきた。

第二次近衛内閣は、いわばラジオ辞令によって成立する。1940(昭和15)年7月8日、元老西園寺公望の秘書原田熊雄は、ラジオを聴くと「近衛が十日に帰って来れば早速陸軍は倒閣をやり、近衛を担いで所謂新党で新しい内閣が出来るというようなことをしきりに言っている」。驚いた原田は近衛に電話でたしかめる。「今は非常に迷惑だ。とても用意も出来ない」。近衛はそう応じた。

ところが米内首相によれば「近衛は、もう次の内閣を引受けることを承知して、諒解したのだ」という(『西園寺公と政局 第八巻』)。近衛自身の説明よりもラジオ放送のほうが正しかった。

第二次近衛内閣は7月22日に成立する。翌23日夜、近衛はラジオをとおして所信を表明した。ラジオ放送を聴いた西園寺は原田に語った。「昨夜近衛の放送をきいたが、非常によく、声はいいし、言うことは大体判るが、内容は実にパラドックスに充ちていたように思う。なんだか自分にはちっとも判らなかった」。

ラジオ放送を聴いていたおおかたの国民も西園寺と同じ印象だったにちがいない。「朝野に於て、上下に於て、真に心を一つにして陛下の御教のままに大政を翼賛し奉らなければならない」と説く近衛の気持ちはわかる。しかし「政府は其の全力をあげて国民の生活必需品の確保を期する」と言いながら、同時に「大節約に努めなければならない」のであれば、国民はどうすればよいのかわからなくなる。

方向感覚を失ったのは国民だけでなく、近衛も同じだった。9月の日独伊三国同盟と10月の大政翼賛会の成立にもかかわらず、近衛は日中戦争を解決するための国内・国際体制を確立することができなかった。

それでも大衆の支持は衰えることがなかった。最後まで切り札でありつづけた近衛は、1941(昭和16)年7月18日に第三次となる組閣をする。

(つづく)

井上 寿一(いのうえ・としかず)
1956年、東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院法学研究科博士課程などを経て、現在、学習院大学法学部教授。法学博士。専攻は日本政治外交史。主な著書に『危機のなかの協調外交』(山川出版社、吉田茂賞)、『日中戦争下の日本』(講談社選書メチエ)、『昭和史の逆説』(新潮新書)、『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)、『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)がある。